鎌ケ谷市内巡り(1) 鎌ヶ谷大仏

新京成の「鎌ヶ谷大仏駅」を降り、右手に向かうと、間もなく左側に市指定文化財の「鎌ヶ谷大仏」があります。 安永5年(1776)に鎌ヶ谷宿の大国屋の福田文左衛門が祖先を供養するため、江戸神田鋳物師多川主膳に鋳造させ、造立したものであるといいます…

鋸南町の「源頼朝上陸地」を訪ねて

鋸南町の竜島にある「頼朝上陸地」を訪ねました。 この上陸地は「県指定史跡」になり、海岸に向かって「石碑」が建っています。 脇の「説明文」(鋸南町教育委員会)には、 <源頼朝が、治承四年(1180)八月、相州石橋山の合戦に敗れ、同国土肥郷真鶴崎…

印西地方の史跡巡り 印旛沼公園(師戸城跡)

印旛沼を見下ろす小高い丘が広がっている県立の公園で、鎌倉時代、この地の豪族であった師戸四郎の居城師戸城跡でもある。 園内には、印旛沼を一望できる展望台の他、季節の花を楽しめる花木園、芝生広場、野球場、ゲートボール場にも利用できる自由広場もあ…

印西地方の史跡巡り 泉福寺薬師堂

岩戸に鎮座する泉福寺薬師堂は、正面を東に向けた方3間の堂で、屋根は萱葺き寄棟造り、柱はすべて丸柱である。堂内部は前1間を外陣とし、後ろを内陣としている。 堂内には秘仏薬師如来、本尊の前立千手観音、十二神将などが祀られている。 昭和52年に国…

千葉市内の旧軍隊施設めぐり

川光倉庫の旧気球連隊格納庫を見た後、椿森の国立千葉医療センターに向かいました。途中、右手に「作草部公園」があり、ここには「作草部神社」が鎮座しています。境内に大正4年11月の忠魂碑、明治21年4月の木花開耶姫命、元治元年4月の石尊大権現、…

旧坂月保育所跡、元は坂月小学校があった地

坂月保育所は、2009年4月に坂月小学校の脇に移転しました。 元の坂月保育所の地(字山王)は、明治25年(1892)9月に坂月村が初めて坂月小学校の校舎を建てた場所です。建物は間口8間、奥行4間の平屋でした。 坂月小学校は、明治6年(1931)…

源頼朝伝説のある白旗神社

中央区新宿町1丁目にある「白旗神社」は、もとは稲倉魂命を祭神として「結城稲荷」と称されていました。 『千葉盛衰記』に、 <頼朝、結城稲荷に白旗を献納、それより白旗大明神と呼ぶ> とあり、治承4年9月17日、源頼朝が千葉に来たとき、千葉介常胤は…

旭市・東禅寺を訪ねて

旭市網戸字城の内の東禅寺を訪ねました。 この寺は、天正18年(1590)に木曽義昌が下総網戸城に入城(1万石)後、城内の一郭に木曽家の菩提寺として建立したという。 入口の標柱には「木曽義昌公廟所」とあり、境内の右手には「木曽義昌公墓所」があ…

武田信玄の四女・真理姫物語(6)

母の真理姫とともに黒沢(木曽町)に隠れ住んだ末子義通が、玉滝村の旧臣末原彦右衛門に送った『書状』(松原家文書)には、 <おのおの心さしのほどを感じ入り候、まことにいかほど義昌目にかけられ候者共多く候へども、その恩の忘れ、かへって敵を求め候に…

武田信玄の四女・真理姫物語(5)

真理姫は、隠棲しながらも、木曽谷の土豪たちと連絡を取り、木曽家再興を念願していたが、それを果たすことなく、正保4年(1647)7月10日に98年という長く、苦難な人生を終えた。 墓は、旭市網戸の東漸寺(義昌公菩提寺)と木曽町三岳野口の上村家…

武田信玄の四女・真理姫物語(4)

文禄4年(1595)3月17日に義昌は家臣や住民に惜しまれながら、阿知戸城で亡くなった。56歳であった。 すでに跡を継いでいた義利は、天正18年(1590)に木曽福島からここ阿知戸の地への転封は「左遷」であると強く主張し、家康への不満を募ら…

武田信玄の四女・真理姫物語(3)

木曽義昌が織田信長に付いたことを武田勝頼に内通したのは真理姫であるといい、同時に上村作左衛門に出した『木曽谷中旧家系譜録』(塩尻市牛丸四方造家文書)には、 <一、同村(木曽黒沢村)之内上村作左衛門と云有、義徳公(木曽氏)に奉仕、戦功度々有之…

武田信玄の四女・真理姫物語(2)

同年(弘治元年)11月に木曽義康・義昌父子は、甲府に出向き、晴信と盟約を結ぶとともに、義昌の妹・岩姫を人質として甲府に差し出し、白木八郎左衛門を付属させた。 これにより、木曽谷は、武田家の支配圏となり、美濃や飛騨への侵攻における最前線基地と…

武田信玄の四女・真理姫物語(1)

天文19年(1550)に真理姫は、武田信玄の四女として生まれた。生母については、正室三条夫人、または測室油川夫人の説がある。信玄には6人の娘がおり、 ・長女=北条氏政に嫁いだ黄梅院(おうばいいん) ・次女=穴川梅雪に嫁いだ見性院(けんしょう…

徳川家康の休憩・宿泊のために造営された千葉御茶屋御殿(記録)

千葉市若葉区御殿町に徳川家康のために造られた「御茶屋御殿」跡があります。 家康は、東金辺での「鷹狩り」のために慶長19年(1614)正月と元和元年(1615)11月に訪れていますが、この御殿は、その休憩・宿泊のために造られたものです。 その…

2代将軍徳川秀忠の乳母の子が妙見寺(千葉神社)16世に、そして筑波山の住職へ

千葉妙見寺(千葉神社)の住職は、1世の覚算が平忠常の子であり、以後、15世覚全まで千葉氏一族のものが住職を続けてきた。 しかし、これも天正18年(1590)に千葉氏を滅び、徳川家康が江戸に入ると、妙見寺の住職も一変する。 千葉氏一族以外から…

千葉介常胤が源頼朝をお迎えした所=「君待橋」

千葉市中央区長洲1丁目、JR本千葉駅付近に都川に架かる「君待橋」があります。この橋は、もともと新川に架かっていた橋ですが、昭和44年3月に家屋移転と道路整備のために取り壊されてしまいました。そこで、昭和55年11月に千葉市は、数々の伝説を…

千葉介胤政の八男多部田太郎の居城・多部田城

大和時代に朝廷の支配を受け、生産や労役にたずさわった人々によって開墾され、農業が行われたという「多部田」(千葉市若葉区多部田町)の地に、土塁と空堀とに囲まれた、方形の城趾が見られます。 永禄9年(1566)、上杉謙信が千葉介胤富の居城、臼井…

千葉一族椎名氏の居城・椎名(崎)城(その2)

千葉一族の椎名胤光は、大椎城の支城椎名(崎)城を居城にしていましたが、その子について、『千葉大系図』では、長子を胤隆(椎名六郎太郎)といい、 <保元の乱に功名を振ふ。治承年中、頼朝卿に仕へ、勇功あり。> とあり、胤隆は保元元年(1156)の…

千葉一族椎名氏の居城、椎名(崎)城を訪ねて(その1)

天正18年(1590)に豊臣秀吉は、関東地方を支配圏にするため、徳川家康と共に小田原北条氏の攻略に向けて軍勢を進めました。そして、4月9日に秀吉は本営の石垣山に入り、秀吉・家康の家臣を北条氏分国の武蔵・上野・下野・上総・下総の支城に向けて…

九十九里町真亀の須賀神社を訪ねて

九十九里町真亀652番地に鎮座する「須賀神社」は、祭神が須佐之男命です。牛頭天王ともいわれ(地元では「天王さま」という)、創建年代は享保年代以前といい、旧真亀村の村社でした。 境内には本殿の他、幣殿、拝殿、社務所、左側には御輿が入った建物が…

九十九里鉄道の跡を追って(その2)

東金市から九十九里町に入ると、九十九里鉄道の路線は「きどうみち」として整備されていた。 東金市にはJR鉄道が走っており、この九十九里鉄道には感心が薄いようで、東金市区は路線が消えたり、用水路などに変わったりしています。 それが九十九里町に入…

九十九里鉄道の跡を追って(その1)

かつて東金・上総片貝間の8.6kmを28分で走っていた「九十九里鉄道」。ほぼ直線で、田んぼの中に単線の線路が敷かれ、平均時速20kmの列車が走っていました。 大正15年(1926)11月25日に「九十九里軌道」として開業しました。土地の人た…

飯高檀林跡(飯高寺)を訪ねて

匝瑳市にある飯高檀林跡(県指定史跡)を訪ねました。 天正8年(1580)にこの地の豪族、平山刑部少輔常時が日生を招き、城内に寺を造り、学問所(檀林)としたのが始まりとされています。天正19年(1591)に徳川幕府から日蓮宗の宗門根本檀林とし…

御成街道の犢橋(こてはし)宿を想う

御成街道の「犢橋宿」は、街道沿いに人馬継ぎ立ての業務を行う「問屋場」の他、旅人相手の旅籠屋(渡辺屋・花嶋屋など)・茶屋(新茶屋)・酒屋・駄菓子屋・餅屋・荒物屋など、15軒ほどの店屋がありました。 午後になると、華美な着物を着た「宿場女(飯盛…

茨城県南部(神栖・鹿嶋)史跡巡り 天狗党の墓

天狗党とは、元治元年(1864)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派である。 その一派の「太平組」と称する川股茂七郎ら800人余りは、幕府の追討軍に追われて鹿島に集まり、旅籠や寺院などに逃れた。 そして、大船津から北浦を渡り、延方へと逃…

JR西千葉駅前の「稲荷大明神」を訪ねて=江戸時代の刑場跡

JR西千葉駅を降り、千葉大学の方の出口を出ると、右側に松山があります。ここに「稲荷大明神」が鎮座しています。 この一帯は、江戸時代に佐倉藩の刑場跡といわれ、多くの松樹が植えられていたといいます。現在は、駅前となり、多くの大学生や高校生などが…

佐倉・臼井の「権現水」を再訪して

久しぶりに国道296号(成田街道)沿いにある佐倉市臼井台の長谷山宗徳寺を訪ねました。この寺は、元は応永3年(1396)に千葉・小弓城主原胤高が生実・柏崎に創建したもので、天正3年(1575)に原胤栄が臼井城に移った時に移転したといいます。 …

那古寺東照宮(那古寺観音堂内)

館山市の那古山の中腹にある那古寺(真言宗智山派)は、鎌倉時代の作といわれる木造千手観音立像(国指定重要文化財)を本尊とし、養老元年(717)に創建したといわれます。明治39年(1906)の『安房志』(斎藤夏之助)の那古寺の項に、 <人皇四十…

成田祇園祭

昨日、仲間と成田祇園祭の見学に出掛けました。開始が1時間も遅れ、開始前に昼食の時間となった。 ウナギでスタミナをつけ、再度、成田山新勝寺の境内へ。10基の御輿・屋台が本殿前に出て、一礼して街内に繰り出した。 2年前にもこの祇園祭の見学に来た…