徳川家康の休憩・宿泊のために造営された千葉御茶屋御殿(記録)

千葉市若葉区御殿町に徳川家康のために造られた「御茶屋御殿」跡があります。

家康は、東金辺での「鷹狩り」のために慶長19年(1614)正月と元和元年(1615)11月に訪れていますが、この御殿は、その休憩・宿泊のために造られたものです。

その規模は、南北123m、東西120mの方形状で、敷地面積が約3600坪、周囲には土塁・空堀が張り巡らされ、現在でも遺構が全面的に残っています。

この内部にどのような建物が建てられていたのかは「絵図」や「図面」が発見されていないため、不明です。

近代の記録として、明治43年(1910)に更科村役場が千葉郡役所に提出した『名所・旧跡調査』の中から、「御茶屋御殿」の部を記します。

<形状>六十間四方の土堤を繞らし、外郭に堀を廻し、高さ二丈余、今尚ほ現存せり。只、表門及び裏門と称する南北二面に一筋の道路あるのみ。

<縁由>口碑に伝ふる所に依れば、慶長八年(十八年の間違えか?)、徳川家康公、幕府を東京(江戸)に定め、総州を巡遊せんとするとき、船橋東葛飾郡)より白幡(山武郡鳴浜町)に至る間、三里(八里余か?)、夘の七分五厘の方位に於いて新道を開造し、現今、新道、又は権現道と称す。該道通過の砌、此地を卜して新殿を築造して宿泊せしと云ふ。該道の南北三町許の所に金光院(千城村金親)に御手懸の桜(家康公、巡遊の砌、該寺に立ち寄り、御手懸の桜ありしが、枯死し、その後、又、桜を植へ、今尚、御手懸の桜と称す)あり。共に通過の記念として、その時を同ふせりと云ふ。

<管理方法>明治維新まで尊崇の地と称し、里人の絶て該地に出入りするものなかりしが、明治十四年(1881)、津田出氏、払い下げ許可を得て畑に開墾せんとす。斯ては地方の旧蹟、煙滅する恐れあるを以て、森なか、これを買得して松・杉・桜などを植え付け、これしが保存に留意しつつあり。

記録の中の「森なか」とは千葉市緑区誉田一丁目に住んでいた方です。現在、この「御茶屋御殿」跡は、千葉市が買収し、市の指定文化財となっています。整備計画もあり、その委員の一人に私がなっていますが、市の財政上の問題で中々先に進まないのが現状です。