2021-07-01から1ヶ月間の記事一覧

千葉町界隈(2) 「遊郭」時代の新町

JR千葉駅の西側には「千葉そごう」という大きなデパートがありますが、ここから海岸向かっての一帯を「新町」といいます。新町通りの裏手には「八幡宮」があり、その脇の「記念之碑」には、 <新町天満宮の鎮座地は、千葉市登戸天神山の中腹に祀られていた…

千葉町界隈(1) 港町時代の登戸(のぶと)

江戸時代、千葉町は散村に過ぎず、むしろ佐倉藩の御蔵があった寒川、一般の旅人が船で乗り降りしていた登戸の方が栄えていました。 江戸時代後期の「登戸の浜」の様子について、弘化2年(1845)の『下総名所図絵』(宮貞定雄)には、 <此のあたりを総…

千城村の成立

明治22年(1889)4月1日に『市制町村制』が施行され、市町村は自治体であるとし、従来の戸長役場は廃止され、同時に戸長・筆生を廃し、町村役場を設定し、町村長・助役・収入役を置き、町村議員を選挙して町村会を設け、自治団体としての育成が図ら…

仁戸名・星久喜の子供たちの通学路跡

千葉東金道路(有料道路)の市立養護学校前の橋の脇に、かって仁戸名・星久喜の子供たちが千城尋常小学校に通った「通学路」の跡が残っています。 この辺りは、台地に登る道で、立派な階段の跡が見られます。 ここに立ちますと、何か集団で、大声を上げなが…

鎌ケ谷市内巡り(2) 旅籠屋「丸屋」

木下街道の鎌ヶ谷宿は、鎌ヶ谷大仏から延命寺までの区間で、街道沿いには問屋や旅籠などが立ち並んでいたといいます。 寛政12年(1800)の『鎌ヶ谷村明細帳』には旅籠が7軒あり、明治6年(1873)には4軒が営業していました。 この旅籠(宿屋)…

鎌ケ谷市内巡り(1) 鎌ヶ谷大仏

新京成の「鎌ヶ谷大仏駅」を降り、右手に向かうと、間もなく左側に市指定文化財の「鎌ヶ谷大仏」があります。 安永5年(1776)に鎌ヶ谷宿の大国屋の福田文左衛門が祖先を供養するため、江戸神田鋳物師多川主膳に鋳造させ、造立したものであるといいます…

鋸南町の「源頼朝上陸地」を訪ねて

鋸南町の竜島にある「頼朝上陸地」を訪ねました。 この上陸地は「県指定史跡」になり、海岸に向かって「石碑」が建っています。 脇の「説明文」(鋸南町教育委員会)には、 <源頼朝が、治承四年(1180)八月、相州石橋山の合戦に敗れ、同国土肥郷真鶴崎…

印西地方の史跡巡り 印旛沼公園(師戸城跡)

印旛沼を見下ろす小高い丘が広がっている県立の公園で、鎌倉時代、この地の豪族であった師戸四郎の居城師戸城跡でもある。 園内には、印旛沼を一望できる展望台の他、季節の花を楽しめる花木園、芝生広場、野球場、ゲートボール場にも利用できる自由広場もあ…

印西地方の史跡巡り 泉福寺薬師堂

岩戸に鎮座する泉福寺薬師堂は、正面を東に向けた方3間の堂で、屋根は萱葺き寄棟造り、柱はすべて丸柱である。堂内部は前1間を外陣とし、後ろを内陣としている。 堂内には秘仏薬師如来、本尊の前立千手観音、十二神将などが祀られている。 昭和52年に国…

千葉市内の旧軍隊施設めぐり

川光倉庫の旧気球連隊格納庫を見た後、椿森の国立千葉医療センターに向かいました。途中、右手に「作草部公園」があり、ここには「作草部神社」が鎮座しています。境内に大正4年11月の忠魂碑、明治21年4月の木花開耶姫命、元治元年4月の石尊大権現、…

旧坂月保育所跡、元は坂月小学校があった地

坂月保育所は、2009年4月に坂月小学校の脇に移転しました。 元の坂月保育所の地(字山王)は、明治25年(1892)9月に坂月村が初めて坂月小学校の校舎を建てた場所です。建物は間口8間、奥行4間の平屋でした。 坂月小学校は、明治6年(1931)…

源頼朝伝説のある白旗神社

中央区新宿町1丁目にある「白旗神社」は、もとは稲倉魂命を祭神として「結城稲荷」と称されていました。 『千葉盛衰記』に、 <頼朝、結城稲荷に白旗を献納、それより白旗大明神と呼ぶ> とあり、治承4年9月17日、源頼朝が千葉に来たとき、千葉介常胤は…

旭市・東禅寺を訪ねて

旭市網戸字城の内の東禅寺を訪ねました。 この寺は、天正18年(1590)に木曽義昌が下総網戸城に入城(1万石)後、城内の一郭に木曽家の菩提寺として建立したという。 入口の標柱には「木曽義昌公廟所」とあり、境内の右手には「木曽義昌公墓所」があ…

武田信玄の四女・真理姫物語(6)

母の真理姫とともに黒沢(木曽町)に隠れ住んだ末子義通が、玉滝村の旧臣末原彦右衛門に送った『書状』(松原家文書)には、 <おのおの心さしのほどを感じ入り候、まことにいかほど義昌目にかけられ候者共多く候へども、その恩の忘れ、かへって敵を求め候に…

武田信玄の四女・真理姫物語(5)

真理姫は、隠棲しながらも、木曽谷の土豪たちと連絡を取り、木曽家再興を念願していたが、それを果たすことなく、正保4年(1647)7月10日に98年という長く、苦難な人生を終えた。 墓は、旭市網戸の東漸寺(義昌公菩提寺)と木曽町三岳野口の上村家…

武田信玄の四女・真理姫物語(4)

文禄4年(1595)3月17日に義昌は家臣や住民に惜しまれながら、阿知戸城で亡くなった。56歳であった。 すでに跡を継いでいた義利は、天正18年(1590)に木曽福島からここ阿知戸の地への転封は「左遷」であると強く主張し、家康への不満を募ら…

武田信玄の四女・真理姫物語(3)

木曽義昌が織田信長に付いたことを武田勝頼に内通したのは真理姫であるといい、同時に上村作左衛門に出した『木曽谷中旧家系譜録』(塩尻市牛丸四方造家文書)には、 <一、同村(木曽黒沢村)之内上村作左衛門と云有、義徳公(木曽氏)に奉仕、戦功度々有之…

武田信玄の四女・真理姫物語(2)

同年(弘治元年)11月に木曽義康・義昌父子は、甲府に出向き、晴信と盟約を結ぶとともに、義昌の妹・岩姫を人質として甲府に差し出し、白木八郎左衛門を付属させた。 これにより、木曽谷は、武田家の支配圏となり、美濃や飛騨への侵攻における最前線基地と…

武田信玄の四女・真理姫物語(1)

天文19年(1550)に真理姫は、武田信玄の四女として生まれた。生母については、正室三条夫人、または測室油川夫人の説がある。信玄には6人の娘がおり、 ・長女=北条氏政に嫁いだ黄梅院(おうばいいん) ・次女=穴川梅雪に嫁いだ見性院(けんしょう…

徳川家康の休憩・宿泊のために造営された千葉御茶屋御殿(記録)

千葉市若葉区御殿町に徳川家康のために造られた「御茶屋御殿」跡があります。 家康は、東金辺での「鷹狩り」のために慶長19年(1614)正月と元和元年(1615)11月に訪れていますが、この御殿は、その休憩・宿泊のために造られたものです。 その…