千葉町界隈(1) 港町時代の登戸(のぶと)

江戸時代、千葉町は散村に過ぎず、むしろ佐倉藩の御蔵があった寒川、一般の旅人が船で乗り降りしていた登戸の方が栄えていました。

 江戸時代後期の「登戸の浜」の様子について、弘化2年(1845)の『下総名所図絵』(宮貞定雄)には、

<此のあたりを総て袖しが浦といふ。海辺より四方十一箇国の山々見ゆ。江戸迄海上の道のり六里あり。晴天の日には、品川高輪御殿山まで見ゆるなり。>

とあり、この登戸の浜から江戸湾東京湾)を挟んで富士山を始め関東の島々が遠望することができ、また、江戸町の品川・高輪などの町並みも見渡すことが出来たといいます。

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登戸の集落は、登渡神社(通称登戸神社)下から河岸への街道沿いに広がっていました。登渡神社は、正保元年(1644)9月に千葉介重胤の弟・登戸権介平定胤が祖先を供養するため、千葉妙見寺(千葉神社)の末寺として僧定弁を開祖として創建したもので、白蛇山真光院(通称登戸妙見寺)と称しました。その後、慶応3年(1867)12月に登渡神社と改め、明治41年(1908)12月に登戸字鷲塚(新千葉3丁目)の鷲神社を合祀しました。

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この神社の入口前を通る道が旧道で、台地の上を通り黒砂・稲毛方面に向かっていました。現在の国道16号(千葉街道)は、明治19年(1886)に寒川片町(港町)にあった元佐倉藩米蔵を使用していた千葉監獄の囚人たちを使って開いたのが始まりです。

この神社下から登戸河岸に向かう街道沿いには、旅人相手の茶屋・荷宿・船宿や回漕問屋などが軒を連ねていました。江戸時代には、荷宿として大坂屋・武蔵屋・木村屋・富士見屋・まさご屋・大野屋、河岸には金七丸・菓子屋などの船宿や三四郎丸・伝八丸・徳久丸・おっさん丸・権次丸・虎丸・神明丸・八幡丸という回漕問屋がありました。これらの中で、荷宿の木村屋が最も大きく、房総に遊ぶ文人墨客の多くが宿泊し、船宿の金七丸は金七河岸と呼ばれるほど有名でした。

文化14年(1817)に江戸に帰るため、この登戸に泊まった高田与清は、その書『相馬日記』に、

<おのれは浜辺なる登戸といふ所に宿る。海士の苦屋並び立ちて、夜の宿はなまぐさく、何となく心よからねば、くつろがにも寝ず。>

とあり、まさに漁場に立つ宿であったといいます。

明治初年には、金七船・善七船・菓子屋船などの船宿の他、荷宿の亀屋・木村屋・米金などがあり、回漕問屋には上総屋・相模屋・伊勢屋・越後屋があり、「船持四十三軒、船八十」があったといいます。

この賑わいを見せていた登戸は、明治27年(1894)に千葉・東京間の鉄道が開通すると、急激に衰えました。