九十九里町の武家屋敷門が移転
近く、九十九里町にある武家屋敷門が、塩害により保存が大変であるとのことで東京の港区に戻るという。
そこで、先日、九十九里郷土研究会ではこの武家屋敷門と豪農屋敷の見学会を開催した。
武家屋敷門は、文久2年(1862)には老中本多美濃守の屋敷門として江戸城の東に建てられていたが、その後、移転し、建て替えられた。
今の建物は、東京芝白金にあったものを、山脇学園が昭和49年(1974)にこの九十九里の地に移転したものである。
武家屋敷門は、江戸末期に老中を務めた本多美濃守屋敷の表門で、かって八重洲の大名小路にあり、いろいろな経過を経て、昭和6年(1931)に藤山邸の表門として移築され、米軍第7艦隊の将校官舎、イタリア大使館官舎と移転した後、昭和39年(1964)に近鉄が買収、山脇学園に寄贈された。
門は、正面21.6m、側面4.7mで、2階建て。屋根は本瓦葺の切妻造りで、重厚な感じは、往時の大名の重格が偲ばれる。
国立博物館の池田屋敷の黒門、東京大学の赤門と並び、日本三門の一つに数えられる国の重要文化財。
徳川家康の休憩のために造営された土気の茶亭
千葉市緑区にある「昭和の森」から大網白里町に向かうと「池田入口」のバス停があります。その反対側にこんもりとした丘陵があり、その丘上に日吉神社が鎮座しています。
この辺り一帯が「土気の茶亭」跡で、『当代記』の慶長19年(1614)1月7日の項に、
<大御所(家康)、下総国とけとうかねへ鷹野のため御出。>
とあり、家康は東金辺で「鷹狩り」をするため、「とけ」(千葉市緑区土気町)を通ったといいます。
また、『寛政重修諸家譜』の小栗信友(又兵衛)の項には、
<此月(寛永元年正月)、小栗又兵衛信友、上総に赴き、東金の御離館、ならびに土気の茶亭構造奉行命ぜられ、この月より手斧始せしとぞ。(中略)のち台徳院殿(秀忠)、東金に御放鷹ありて、采地池田村(大網白里市池田)を過らせたまふの時、御茶屋経営の事をつとめしにより、采地ちかき金谷村(大網白里市金谷)にして山林の地をたまふ。>
とあり、小栗信友は東金御殿と土気の茶亭の「構造奉行」(改築又は増築か?)を行い、秀忠が池田に来た時、その褒美として金谷村の山林の地を賜ったといいます。
さて、日吉神社の山門から急な階段を登ると社殿があり、この左手の一段高い所に家康を祭神とする「権現大明神」(土地の人たちは「権現様」といいます)という小祠があります。この地からは広大な九十九里平野を遠望することができます。
『徳川実紀』や『当代記』には、家康がこの地を訪れたことが記載されており、この地には随所に家康伝承があります。日吉神社の階段の途中には井戸跡があり、家康が休憩された時、池田の人たちがこの井戸水で御茶を差し上げたといいます。また、社殿の脇に大きな松の老木があり、家康は鎧をこの木に掛けて休憩されたといい、後にこの木を「御茶屋松」と称されたといわれています。さらに、この茶亭の裏側が切り通しになっており、これは家康のお成りのために造成した道で、「お成り道」(御成街道)といわれ、神社の反対側から池田の集落に行くと、山林の中に「賄屋(まかんや)の井戸跡」があり、家康や家臣たちの馬に水を飲ませた井戸であるといいます。
この茶亭でくつろいだ家康は、池田の人たちの厚いもてなしに感謝し、これを仕切った池田の代官野村彦太夫に、茶亭から北方に、眼中に入る一帯の土地(金谷村)を与えたともいわれています。
この茶亭は、船橋御殿・御茶屋御殿・東金御殿と同じ寛文11年(1671)に取り壊されたといい、かっては輝かしい史跡であったと思われますが、時とともに忘れ去られようとしています。
徳川家康の休憩・宿泊のために造られた船橋御殿考
徳川家康が初めて船橋宿(船橋市)を訪れたのは、天正19年(1591)であり、『船橋御殿御由緒写』(千葉市花見川区幕張町・中須賀武文家文書)に、
<(前略)時に天正十九辛卯年、関東入国なさしめ玉ひ、初て船橋へ成され候節、当宮(意富比神社)は関東の惣社にして、然も江府御居城御守の神社なりにより、御参宮遊ばされ、則時(そのとき)の神官富中務太輔宅を勿体なきも御旅館の御殿に遊ばされ(以下略)>
とあり、家康は意富比神社(船橋大神宮)の神官富中務大輔基重の邸宅を仮の御殿にしたという。
神官富氏の始祖は、景行天皇(12代天皇)第4皇子五百城入彦で、天皇の詔により船橋に下向し、東国88ヶ村の県主と意富比神社の神主として赴任したという。
船橋御殿について、宝永4年(1707)4月の『船橋御殿跡地裁許絵図』の裏書に、
<伊奈半左衛門(忠克。半十郎忠政の間違いか)家来遠山群大夫・根岸助太夫差遣令詮議(以下略)>
とあり、慶長17年(1612)に家康の命を受けた関東郡代伊奈忠政は、神官富氏の邸宅を「田中の地」(船橋市藤原に田中屋敷あり)に移し、家来の遠山群太夫・根岸助太夫に御殿を造営させたという。その敷地は、前書に、
<御殿地にて、一町六反五畝二十四歩除地に候>
とあり、約4800坪で、『絵図』には「御殿跡」・「囲土手、惣反歩五反四畝十歩」、「大膳分畠」、「郷御蔵」、「御立野」、「表御門」「裏御門」、「野道」という明記があるが、敷地内にどのような建物があったのかは不明である。
その後、この御殿は修理が行われたようで、『寛政重修諸家譜』の小笠原貞信(源四郎)の項に、
<(寛永)十六年(1639)六月二十日、仰を受けたまはりて船橋御殿修理の奉行をつとむ。>
とある。
この御殿に家康は、慶長19年(1614)1月に東金辺での「鷹狩り」の途中に立ち寄り、帰りにもここで休憩している。また、翌元和元年(1615)11月16日にも東金に行く途中にこの御殿で休憩し、帰路の同月25日には宿泊している。この日の『徳川実紀』には、
<大御所(家康)、東金より船橋へ至らせ給ふ。今夜、船橋市中、失火し、民居悉(ことごと)く焼失すといへども、御旅館は恙(つつが)なし。>
とあり、船橋市中で火災が発生し、民家のほとんどが焼失したが、御殿には影響がなかったという。地元には、この時、家康は何者かに鉄砲で撃たれたが、富氏が救ったという伝承がある。
この御殿には家康2回、秀忠10回、家光が大納言時代に1回の計13回、訪れていることが記録されている。
しかし、寛永7年(1630)12月以降、将軍(大御所)のお成りはなく、寛文11年(1671)4月にこの御殿の他、千葉の御茶屋御殿、東金御殿、土気の茶亭(大網白里町池田)は取り壊された。
木更津・長須賀東照宮
国道16号を木更津市街に向かって進むと、「南長須賀」バス停の先が字南であり、西清小学校があります。その手前に大物主命、国常立命、瓊々杵尊(ににぎのみこと)を祭神とする日枝神社があります。
この神社の由緒は不詳ですが、かっての社名が山王社で、明治元年(1868)に現在名に改められました。現在の社殿は、弘化4年(1847)に再建されたもので、内部には葛飾北斎が当地に滞在中、畳ヶ池(この神社の南方、字堰ノ上にあり)辺で描いたという「富士の巻狩」の扁額が掲げられています。
境内社について、明治・大正期の『千葉県神社明細帳』に、
一.境内神社 七社
東照神社 祭神 源家康公
由緒 不詳
建物 石祠
とあります。この東照神社は、境内の右側に三基の石祠が並び、その左手の石祠(高さ67cm、幅23cm、奥行16cm)で、
(正 面) 東照宮
(右側面) 嘉永己酉年(二年、1849)
(左側面) 四月十七日
と刻まれています。
高村光太郎が一服した白里村(大網白里市)の南今泉
昭和9年(1934)5月7日、光太郎は「藁にもすがる思い」で智恵子を母センが住む豊海村(九十九里町)真亀納屋に転地療養をさせました。
そして、光太郎は、ほぼ毎週1回、この真亀の地を智恵子の見舞いのため、訪れました。
朝早く両国駅を発ち、2時間20分かけて大網駅に着き、ここから東海バスに乗り、白里村(大網白里市)南今泉に着きました。
ここで、一宮からの東海バス、片貝行きに乗り換えますが、光太郎はこの南今泉の店屋で休憩をとりました。この店屋は、「富塚屋」であったといい、この店の女主人は、「黄八丈の着物を着て、帽子はなく、その頃流行した、藤のボストンバックを持った、光太郎先生をみつけました」と話されていました。
この富塚屋は、10年ぐらい前にセブンイレブンに変わりましたが、その後、閉店しています。