九十九里鉄道の跡を追って(その2)

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東金市から九十九里町に入ると、九十九里鉄道の路線は「きどうみち」として整備されていた。

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東金市にはJR鉄道が走っており、この九十九里鉄道には感心が薄いようで、東金市区は路線が消えたり、用水路などに変わったりしています。

それが九十九里町に入ると、路線が舗道やサイクリングロードとして整備され、所々には休憩所やベンチなどもあります。

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これも行政の熱の入れ方の違いであると、熟々感じました。

終点であった「上総片貝駅」へ。すでに駅舎もなく、バスの発着場になっていました。

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現在もこの鉄道が走っていると、観光用路線にはなるだろうが、赤字路線で、お荷物になるのかなあ!

九十九里鉄道の跡を追って(その1)

かつて東金・上総片貝間の8.6kmを28分で走っていた「九十九里鉄道」。ほぼ直線で、田んぼの中に単線の線路が敷かれ、平均時速20kmの列車が走っていました。

大正15年(1926)11月25日に「九十九里軌道」として開業しました。土地の人たちは「きどー」と呼び、親しんでいました。夏には九十九里浜への海水浴客で混み合ったといい、成東の大須賀と九十九里町の真亀に延長する計画や千葉市まで延ばす計画もあったといいます。

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昭和6年(1931)12月に社名を「九十九里鉄道」に変更しましたが、走れば走るほど赤字が膨らんだともいわれます。

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昭和36年(1961)2月28日に35年間走り続けてきた九十九里鉄道は廃止されました。

先日、その廃線跡を訪ねました。そして、まず感じたことは東金市九十九里町のこの鉄道に対する思いというか、熱意の違いでした。

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飯高檀林跡(飯高寺)を訪ねて

匝瑳市にある飯高檀林跡(県指定史跡)を訪ねました。

天正8年(1580)にこの地の豪族、平山刑部少輔常時が日生を招き、城内に寺を造り、学問所(檀林)としたのが始まりとされています。天正19年(1591)に徳川幕府から日蓮宗の宗門根本檀林として公認され、以後、幕府の保護を受けました。特に家康の側室お万の方(養珠院)の信仰が厚く、その子水戸頼房・紀伊頼宣の寄進などにより、規模が整えられ、以後、寺は日蓮宗の根本檀林として全国各地から参集する修業僧たちで賑わい、名僧を輩出しました。

慶安3年(1650)に火災に遭い、衆寮・楼門・大講堂を焼失し、現在の建物は、その翌年(慶安4年)に再建されたものといわれています。

明治7年(1874)に檀林の制度が廃止され、不要な建物は取り壊され、現在では広大な境内・杉並木・大講堂・総門・鐘楼・鼓楼などが往時の盛大さをしのばせてくれます。

写真は、古木の杉並木から大講堂に向けて写したものです。

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御成街道の犢橋(こてはし)宿を想う

御成街道の「犢橋宿」は、街道沿いに人馬継ぎ立ての業務を行う「問屋場」の他、旅人相手の旅籠屋(渡辺屋・花嶋屋など)・茶屋(新茶屋)・酒屋・駄菓子屋・餅屋・荒物屋など、15軒ほどの店屋がありました。

午後になると、華美な着物を着た「宿場女(飯盛女)」が立ち、行き交う旅人に声をかけ、また、夜遅くまで三味線の音が聞こえていたという。

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現在の町並みからは想像できない江戸時代の様子である。

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茨城県南部(神栖・鹿嶋)史跡巡り 天狗党の墓

天狗党とは、元治元年(1864)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派である。

その一派の「太平組」と称する川股茂七郎ら800人余りは、幕府の追討軍に追われて鹿島に集まり、旅籠や寺院などに逃れた。

そして、大船津から北浦を渡り、延方へと逃れるが、逃げ遅れた23名は、この地で捕らえられ、下生の石橋外で打ち首に処せられ、大壌(だいじょう)新田の馬捨て場に埋められた。

明治になり、斎藤俊鹿島郡初代郡長によって「殉難諸士之墓」が建てられた。因みに天狗党の本隊は、敦賀で全滅している。

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JR西千葉駅前の「稲荷大明神」を訪ねて=江戸時代の刑場跡

JR西千葉駅を降り、千葉大学の方の出口を出ると、右側に松山があります。ここに「稲荷大明神」が鎮座しています。

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この一帯は、江戸時代に佐倉藩の刑場跡といわれ、多くの松樹が植えられていたといいます。現在は、駅前となり、多くの大学生や高校生などが行き来していますが、ここが江戸時代には人里離れた地にあった刑場で、大罪を犯した人が処刑された地であるとは思えないところになっています。

ここで具体的には誰がどんな罪で処刑されたのかは不明です。

佐倉・臼井の「権現水」を再訪して

久しぶりに国道296号(成田街道)沿いにある佐倉市臼井台の長谷山宗徳寺を訪ねました。この寺は、元は応永3年(1396)に千葉・小弓城主原胤高が生実・柏崎に創建したもので、天正3年(1575)に原胤栄が臼井城に移った時に移転したといいます。

慶長19年(1614)正月に徳川家康が「鷹狩り」のため、東金辺を訪れたときにこの寺にも参詣したといい、享保7年(1722)の『佐倉風土記』の「権現水」の項に、

印旛郡臼井の宗徳寺仏殿の前にあり。伝ふに東照神君(家康)、狩りのためここにおいて憩ふ。これを美とめていわく。宛も京師柳の水に似たり。>

とあり、家康がこの寺を訪れた時にこの清水を使ったお茶を召し上がり、この水が京都の柳の水に似て、美味しいと褒め称えたといいます。

この「権現水」は、宗徳寺墓地入口の左手にあり、「権現水」と「家康御遺訓」の石碑が建てられ、その前にあります。平成10年に訪れたときには、マンションや住宅地もなく、台地下によどんだ池がありましたが、その当時から比べると、周辺の景観が随分変化していました。

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当時は、台地から流れ湧く水の小池であったと思われますが、現在は回りに石を囲んだ池になっており、きれいな水とは言い難く、飲むことはできません。