千葉市

千葉市の大宮神社

福寿院の先を右手に入り、坂道を上り、しばらく進むと右手に「大宮神社」があります。大正15年2月の『千葉郡誌』には、 <千城村川戸字大宮戸に鎮座す。天鈿女命(あめのうずめのみこと)外二柱の神を祀る。社殿間口四尺、奥行四尺、境内百五坪あり。境内…

七廻(ななまわり)塚古墳について

村田川の河口デルタに面する台地上(生実町字峠台)にあった七廻塚古墳は、直経54m、高さ8.8mの大円墳でしたが、昭和33年に生浜中学校(生浜東小学校)校庭の拡張により消滅しました。 この時の調査によると、内部施設は3基あり、いずれも両端に粘…

千葉市散策 検見川神社

検見川神社は、貞観11年(869)に疫病退散のため、素盞鳴尊をこの地に祀られたのが起こりであるという。 その後、江戸時代の元和2年(1616)にこの地の領主であった旗本の金田正明(正辰)が宇迦之御魂神、寛永年間(1624~44)に伊弉冉尊を…

千葉町界隈(2) 「遊郭」時代の新町

JR千葉駅の西側には「千葉そごう」という大きなデパートがありますが、ここから海岸向かっての一帯を「新町」といいます。新町通りの裏手には「八幡宮」があり、その脇の「記念之碑」には、 <新町天満宮の鎮座地は、千葉市登戸天神山の中腹に祀られていた…

千葉町界隈(1) 港町時代の登戸(のぶと)

江戸時代、千葉町は散村に過ぎず、むしろ佐倉藩の御蔵があった寒川、一般の旅人が船で乗り降りしていた登戸の方が栄えていました。 江戸時代後期の「登戸の浜」の様子について、弘化2年(1845)の『下総名所図絵』(宮貞定雄)には、 <此のあたりを総…

千葉市内の旧軍隊施設めぐり

川光倉庫の旧気球連隊格納庫を見た後、椿森の国立千葉医療センターに向かいました。途中、右手に「作草部公園」があり、ここには「作草部神社」が鎮座しています。境内に大正4年11月の忠魂碑、明治21年4月の木花開耶姫命、元治元年4月の石尊大権現、…

徳川家康の休憩・宿泊のために造営された千葉御茶屋御殿(記録)

千葉市若葉区御殿町に徳川家康のために造られた「御茶屋御殿」跡があります。 家康は、東金辺での「鷹狩り」のために慶長19年(1614)正月と元和元年(1615)11月に訪れていますが、この御殿は、その休憩・宿泊のために造られたものです。 その…

2代将軍徳川秀忠の乳母の子が妙見寺(千葉神社)16世に、そして筑波山の住職へ

千葉妙見寺(千葉神社)の住職は、1世の覚算が平忠常の子であり、以後、15世覚全まで千葉氏一族のものが住職を続けてきた。 しかし、これも天正18年(1590)に千葉氏を滅び、徳川家康が江戸に入ると、妙見寺の住職も一変する。 千葉氏一族以外から…

千葉介常胤が源頼朝をお迎えした所=「君待橋」

千葉市中央区長洲1丁目、JR本千葉駅付近に都川に架かる「君待橋」があります。この橋は、もともと新川に架かっていた橋ですが、昭和44年3月に家屋移転と道路整備のために取り壊されてしまいました。そこで、昭和55年11月に千葉市は、数々の伝説を…

千葉市にある「寛永寺の石灯籠」

千葉市に寛永寺の石灯籠が保存されています。 この石灯籠には、 <浚明院殿(第10代将軍) 天明六年丙午(1786)九月八日 江州水口城(滋賀県甲賀市水口町)主 従五位下佐渡守藤原朝臣 加藤氏明陳(あきのぶ) 敬白> と刻まれています。 加藤明陳は、…

千葉市内で最も古い道標(道しるべ)

道標(道しるべ)は、道案内を主とする「道標」と、民間信仰に基づいて造立された石仏・石塔などに道案内の銘文を刻んだ「道標銘」とに大別されます。 千葉市内では、現在、128基の道標が確認されていますが、その中で最も古い道標(道標銘)は、中央区弁…