徳川家康の休憩・宿泊のために造られた船橋御殿考

徳川家康が初めて船橋宿(船橋市)を訪れたのは、天正19年(1591)であり、『船橋御殿御由緒写』(千葉市花見川区幕張町・中須賀武文家文書)に、

<(前略)時に天正十九辛卯年、関東入国なさしめ玉ひ、初て船橋へ成され候節、当宮(意富比神社)は関東の惣社にして、然も江府御居城御守の神社なりにより、御参宮遊ばされ、則時(そのとき)の神官富中務太輔宅を勿体なきも御旅館の御殿に遊ばされ(以下略)>

とあり、家康は意富比神社(船橋大神宮)の神官富中務大輔基重の邸宅を仮の御殿にしたという。

神官富氏の始祖は、景行天皇(12代天皇)第4皇子五百城入彦で、天皇の詔により船橋に下向し、東国88ヶ村の県主と意富比神社の神主として赴任したという。

船橋御殿について、宝永4年(1707)4月の『船橋御殿跡地裁許絵図』の裏書に、

伊奈半左衛門(忠克。半十郎忠政の間違いか)家来遠山群大夫・根岸助太夫差遣令詮議(以下略)>

とあり、慶長17年(1612)に家康の命を受けた関東郡代伊奈忠政は、神官富氏の邸宅を「田中の地」(船橋市藤原に田中屋敷あり)に移し、家来の遠山群太夫・根岸助太夫に御殿を造営させたという。その敷地は、前書に、

<御殿地にて、一町六反五畝二十四歩除地に候>

とあり、約4800坪で、『絵図』には「御殿跡」・「囲土手、惣反歩五反四畝十歩」、「大膳分畠」、「郷御蔵」、「御立野」、「表御門」「裏御門」、「野道」という明記があるが、敷地内にどのような建物があったのかは不明である。

その後、この御殿は修理が行われたようで、『寛政重修諸家譜』の小笠原貞信(源四郎)の項に、

<(寛永)十六年(1639)六月二十日、仰を受けたまはりて船橋御殿修理の奉行をつとむ。>

とある。

この御殿に家康は、慶長19年(1614)1月に東金辺での「鷹狩り」の途中に立ち寄り、帰りにもここで休憩している。また、翌元和元年(1615)11月16日にも東金に行く途中にこの御殿で休憩し、帰路の同月25日には宿泊している。この日の『徳川実紀』には、

<大御所(家康)、東金より船橋へ至らせ給ふ。今夜、船橋市中、失火し、民居悉(ことごと)く焼失すといへども、御旅館は恙(つつが)なし。>

とあり、船橋市中で火災が発生し、民家のほとんどが焼失したが、御殿には影響がなかったという。地元には、この時、家康は何者かに鉄砲で撃たれたが、富氏が救ったという伝承がある。

この御殿には家康2回、秀忠10回、家光が大納言時代に1回の計13回、訪れていることが記録されている。

しかし、寛永7年(1630)12月以降、将軍(大御所)のお成りはなく、寛文11年(1671)4月にこの御殿の他、千葉の御茶屋御殿、東金御殿、土気の茶亭(大網白里町池田)は取り壊された。