2021-06-01から1ヶ月間の記事一覧

2代将軍徳川秀忠の乳母の子が妙見寺(千葉神社)16世に、そして筑波山の住職へ

千葉妙見寺(千葉神社)の住職は、1世の覚算が平忠常の子であり、以後、15世覚全まで千葉氏一族のものが住職を続けてきた。 しかし、これも天正18年(1590)に千葉氏を滅び、徳川家康が江戸に入ると、妙見寺の住職も一変する。 千葉氏一族以外から…

千葉介常胤が源頼朝をお迎えした所=「君待橋」

千葉市中央区長洲1丁目、JR本千葉駅付近に都川に架かる「君待橋」があります。この橋は、もともと新川に架かっていた橋ですが、昭和44年3月に家屋移転と道路整備のために取り壊されてしまいました。そこで、昭和55年11月に千葉市は、数々の伝説を…

千葉介胤政の八男多部田太郎の居城・多部田城

大和時代に朝廷の支配を受け、生産や労役にたずさわった人々によって開墾され、農業が行われたという「多部田」(千葉市若葉区多部田町)の地に、土塁と空堀とに囲まれた、方形の城趾が見られます。 永禄9年(1566)、上杉謙信が千葉介胤富の居城、臼井…

千葉一族椎名氏の居城・椎名(崎)城(その2)

千葉一族の椎名胤光は、大椎城の支城椎名(崎)城を居城にしていましたが、その子について、『千葉大系図』では、長子を胤隆(椎名六郎太郎)といい、 <保元の乱に功名を振ふ。治承年中、頼朝卿に仕へ、勇功あり。> とあり、胤隆は保元元年(1156)の…

千葉一族椎名氏の居城、椎名(崎)城を訪ねて(その1)

天正18年(1590)に豊臣秀吉は、関東地方を支配圏にするため、徳川家康と共に小田原北条氏の攻略に向けて軍勢を進めました。そして、4月9日に秀吉は本営の石垣山に入り、秀吉・家康の家臣を北条氏分国の武蔵・上野・下野・上総・下総の支城に向けて…

九十九里町真亀の須賀神社を訪ねて

九十九里町真亀652番地に鎮座する「須賀神社」は、祭神が須佐之男命です。牛頭天王ともいわれ(地元では「天王さま」という)、創建年代は享保年代以前といい、旧真亀村の村社でした。 境内には本殿の他、幣殿、拝殿、社務所、左側には御輿が入った建物が…

九十九里鉄道の跡を追って(その2)

東金市から九十九里町に入ると、九十九里鉄道の路線は「きどうみち」として整備されていた。 東金市にはJR鉄道が走っており、この九十九里鉄道には感心が薄いようで、東金市区は路線が消えたり、用水路などに変わったりしています。 それが九十九里町に入…

九十九里鉄道の跡を追って(その1)

かつて東金・上総片貝間の8.6kmを28分で走っていた「九十九里鉄道」。ほぼ直線で、田んぼの中に単線の線路が敷かれ、平均時速20kmの列車が走っていました。 大正15年(1926)11月25日に「九十九里軌道」として開業しました。土地の人た…

飯高檀林跡(飯高寺)を訪ねて

匝瑳市にある飯高檀林跡(県指定史跡)を訪ねました。 天正8年(1580)にこの地の豪族、平山刑部少輔常時が日生を招き、城内に寺を造り、学問所(檀林)としたのが始まりとされています。天正19年(1591)に徳川幕府から日蓮宗の宗門根本檀林とし…

御成街道の犢橋(こてはし)宿を想う

御成街道の「犢橋宿」は、街道沿いに人馬継ぎ立ての業務を行う「問屋場」の他、旅人相手の旅籠屋(渡辺屋・花嶋屋など)・茶屋(新茶屋)・酒屋・駄菓子屋・餅屋・荒物屋など、15軒ほどの店屋がありました。 午後になると、華美な着物を着た「宿場女(飯盛…

茨城県南部(神栖・鹿嶋)史跡巡り 天狗党の墓

天狗党とは、元治元年(1864)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派である。 その一派の「太平組」と称する川股茂七郎ら800人余りは、幕府の追討軍に追われて鹿島に集まり、旅籠や寺院などに逃れた。 そして、大船津から北浦を渡り、延方へと逃…

JR西千葉駅前の「稲荷大明神」を訪ねて=江戸時代の刑場跡

JR西千葉駅を降り、千葉大学の方の出口を出ると、右側に松山があります。ここに「稲荷大明神」が鎮座しています。 この一帯は、江戸時代に佐倉藩の刑場跡といわれ、多くの松樹が植えられていたといいます。現在は、駅前となり、多くの大学生や高校生などが…

佐倉・臼井の「権現水」を再訪して

久しぶりに国道296号(成田街道)沿いにある佐倉市臼井台の長谷山宗徳寺を訪ねました。この寺は、元は応永3年(1396)に千葉・小弓城主原胤高が生実・柏崎に創建したもので、天正3年(1575)に原胤栄が臼井城に移った時に移転したといいます。 …

那古寺東照宮(那古寺観音堂内)

館山市の那古山の中腹にある那古寺(真言宗智山派)は、鎌倉時代の作といわれる木造千手観音立像(国指定重要文化財)を本尊とし、養老元年(717)に創建したといわれます。明治39年(1906)の『安房志』(斎藤夏之助)の那古寺の項に、 <人皇四十…

成田祇園祭

昨日、仲間と成田祇園祭の見学に出掛けました。開始が1時間も遅れ、開始前に昼食の時間となった。 ウナギでスタミナをつけ、再度、成田山新勝寺の境内へ。10基の御輿・屋台が本殿前に出て、一礼して街内に繰り出した。 2年前にもこの祇園祭の見学に来た…

千葉市にある「寛永寺の石灯籠」

千葉市に寛永寺の石灯籠が保存されています。 この石灯籠には、 <浚明院殿(第10代将軍) 天明六年丙午(1786)九月八日 江州水口城(滋賀県甲賀市水口町)主 従五位下佐渡守藤原朝臣 加藤氏明陳(あきのぶ) 敬白> と刻まれています。 加藤明陳は、…

鴨川市めぐり 荒島(灯台島)

鴨川松島の一つの荒島は、弁天島のすぐ近くにあり、鴨川灯台が設置されていることから「灯台島」とも呼ばれている。 防波堤から架かる橋は、ハシゴ状で、ジャングルジム並みに鉄骨のはしごである。足元は金網の状態で、何か寒気を覚える。 鴨川灯台は、白亜…

鴨川市内めぐり 弁天島

鴨川漁港を通り抜け、防波堤を進むと、右側に「鴨川松島」で最も大きな島がある。厳島神社が祀られている弁天島で、面積0.02平方キロ、周囲0.5キロである。 新しく建て替えられた橋を渡ると、厳島神社の赤い鳥居があり、その先に改修中の本殿がある。…

鴨川市内めぐり 鴨川松島

鴨川の貝渚(かいすか)から江見にかけての海岸には多くの小島や奇岩が点在しており、中でも、鴨川漁港の沖には外房随一の名勝と称される「鴨川松島」の絶景が広がっている。 この鴨川松島は、荒島・弁天島・鵜島・雀島・波濤根島・猪貝島・海獺(あしか)島…

鴨川市内めぐり 魚見塚展望台

魚見塚とは、漁師が魚群を探すためにここに登って見たという伝承がその由来であるという。 海抜110mの地点に位置し、頂上には長谷川昴氏が彫刻したシンボル女神像「暁風」が太平洋を見つめている。 この像の前で恋人同士が愛を誓いあい、その誓いの場に…

千葉氏13代の居城・千葉城(亥鼻城)

千葉城(亥鼻城、猪鼻城)の創築については種々の説がありますが、大治元年(1126)に千葉介常重が大椎城(千葉市緑区大椎町)から亥鼻台に築城したとの考えが有力です。城下に様子は、「氏族諸臣の宅も軒を列ねて大に富み販へり」(『千葉伝考記』)と…

千葉氏の重要な拠点・大椎城

千葉市緑区大椎町の「大椎城」は、平安時代中期に平忠常(975~1031)が築き、大治元年(1126)に千葉常重が千葉城(亥鼻城)に移るまで、千葉氏の重要な拠点でした。 平忠常は、この大椎城の他、下総国大友にも居館を構え、両総に広大な私営田を…

千葉市内で最も古い道標(道しるべ)

道標(道しるべ)は、道案内を主とする「道標」と、民間信仰に基づいて造立された石仏・石塔などに道案内の銘文を刻んだ「道標銘」とに大別されます。 千葉市内では、現在、128基の道標が確認されていますが、その中で最も古い道標(道標銘)は、中央区弁…

千葉・更科地区の伝説・伝承(1)徳川家康と「さらしな」

千葉市若葉区旦谷・谷当・下田・大井戸・下泉・上泉・中田(更科町・御殿町を含む)・富田・古泉の各町の一帯を総称して「さらしな」と呼ばれるようになったのは、徳川家康の命名によるという説があります。 「さらしな」とは、『広辞苑』(岩波書店)による…

世直し・攘夷「真忠組騒動」の史跡を訪ねて

幕末の文久3年(1863)12月、攘夷と貧民救済をスローガンに掲げ、楠音次郎正光(首領)、三浦帯刀有国(副首領)ら140人余が山辺郡小関村(九十九里町小関)の旅籠「大村屋」(写真上)を拠点として「真忠組」の旗揚げをした。世に「真忠組騒動」…

九十九里有料道路の「智恵子橋」

九十九里有料道路(波乗り道路)の片貝ICから大網白里に向かいますと、間もなく右手に国民宿舎サンライズ九十九里の建物が目に入り、有料道路は真亀川に架かる橋を渡ります。 この橋を「智恵子橋」といい、昭和9年(1934)5月から7ヶ月余り真亀納屋…

「安くて、おいしい!」九十九里・真亀のプレートランチ・ワイメア

「九十九里有料道路」を真亀で下りると、正面に特異な建物の国民宿舎「サンライズ九十九里」が目に入ります。この前から1つ目の信号(左手にコンビニ・ヤマザキがある)を右手に入ると、左側にハワイ風の建物があります。これがハワイを好み、毎年のように…

「九十九里浜」の地名由来

石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、房州に逃れ、その後、太東崎に差し掛かりました。 「美しい景観だのう・・・。いったい、この浜辺はどのくらいの道のりでがざるか?」 「は、はい。いまだに誰も計ったことがありませんので、いかほどの道のりか分かり兼ねま…