「九十九里浜」の地名由来
石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、房州に逃れ、その後、太東崎に差し掛かりました。
「美しい景観だのう・・・。いったい、この浜辺はどのくらいの道のりでがざるか?」
「は、はい。いまだに誰も計ったことがありませんので、いかほどの道のりか分かり兼ねます」
「わからぬのか。こんな美しい浜が・・・。それじゃ、わしが計ってつかわそう」
「殿、地の果ての見えないこの浜をどのようにしてお計りになられるのでしょうか?」
「ああ、たやすいことよ。このようにして計ればいいのだ」
頼朝は、弓矢を取り出しました。
「一里(約600m)ごとに矢を立てていけば、計れるのではないか」
すぐに頼朝は、一里ごとに弓矢を立てていきました。そして、九十九本の弓矢が立てられて所で浜辺は終わりになりました。
「九十九本の弓矢が立ったことから、この浜辺を『九十九里浜』と呼ぶがいい」
こうして、太東崎から刑部岬に至る弓やりの浜辺(約56km)を「九十九里浜」、別名「矢指が浦」という地名が付けられたといいます。
写真は、九十九里浜の真亀海岸から豊海(不動堂)海岸を眺めたのものです。遠くに見える白い建物が豊海海岸の「マリンタワー」です。