世直し・攘夷「真忠組騒動」の史跡を訪ねて

幕末の文久3年(1863)12月、攘夷と貧民救済をスローガンに掲げ、楠音次郎正光(首領)、三浦帯刀有国(副首領)ら140人余が山辺郡小関村(九十九里町小関)の旅籠「大村屋」(写真上)を拠点として「真忠組」の旗揚げをした。世に「真忠組騒動」という。

この騒動に参加したのは、武士・百姓・商人・職人・漁民(網元・水主)・医師から無宿者までおり、山武・長生・匝瑳・香取・海上・市原の各郡にまたがる人々が参加した。 八日市場匝瑳市八日市場)の福善寺と茂原の藻原寺塔中法光院にも支館を置き、村役人や裕福な農商人から軍用金や武器などを調達し、金銭や米の分配から民事関係の裁判も行っていた。

元治元年(1864)正月、幕府は福島(板倉)・一宮・多古・佐倉の4藩の兵、約1500人を派遣させ、真忠組の鎮圧に当たらせた。

同月17日早朝、幕府軍と板倉軍からなる討伐軍、100人余りが小関の大村屋を攻 撃し、首領の楠を始め、7人が討死し、他の26人ぐらいは逃亡した。討伐軍では板倉藩士高橋直太が独りで果敢に戦い、唯一戦死した。

また、18日に佐倉藩兵500人が東金に着き、翌日から残党狩りに当たった。

他方、茂原支館にいた副首領の三浦ら18人は、小関に向かったが、途中で急報が入り、茂原に戻る途中で一宮藩兵150と出会い、戦いとなったが、ほとんどが一宮藩兵に捕らえられた。

八日市場支館にいた隊員17人は、小関討伐の報告を受け、支援のため小関に向かった。その後へ多古藩兵150人が着いたが、空振りであった。隊員17人は大村屋で同士が敗れたことを知り、四散した。中には商人に変装して逃亡した者もいたという。

2月11日から東金の最福寺で生捕らえた者の裁判が開始され、3月29日に田間村(東金市田間)で三浦ら12人の斬首が行われ、うち10人が小関新開で晒し首となった。

九十九里町小関には、真忠組の拠点となった旅籠大村屋跡

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首領楠・副首領三浦の墓碑(明治28年8月13日立、中村亀吉)

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作田川畔に楠・三浦の辞世が刻まれた真忠組志士鎮魂碑がある。

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