2代将軍徳川秀忠の乳母の子が妙見寺(千葉神社)16世に、そして筑波山の住職へ
千葉妙見寺(千葉神社)の住職は、1世の覚算が平忠常の子であり、以後、15世覚全まで千葉氏一族のものが住職を続けてきた。
しかし、これも天正18年(1590)に千葉氏を滅び、徳川家康が江戸に入ると、妙見寺の住職も一変する。
千葉氏一族以外から初めて妙見寺住職になったのが16世光誉である。この人は、秀忠の乳母の子であり、慶長14年(1609)まで勤めた。
その後について、『妙見実録千集記』には、
<台(秀忠)命に依り、筑波山知足院に住し、大坂合戦之時、両度まで陣中へ供し奉り、御祈祷を丹誠に抽す。鎧甲等、筑波山に有り。>
とあり、妙見寺を退いた後、筑波山知足院の住職になったという。
また、大坂冬・夏の両陣にも「祈祷役」として出陣し、怪我などをした武士の世話に当たった。怪我の手当に使用したのが「がまの油」で、治療薬として評判になったという。
慶長19年(1614)に家康は「鷹狩り」のため、東金を訪れるが、途中、乳母兄弟の由緒により、この妙見寺に立ち寄っている。
写真は、筑波山にある「光誉の供養塔」である。