千葉一族椎名氏の居城・椎名(崎)城(その2)

千葉一族の椎名胤光は、大椎城の支城椎名(崎)城を居城にしていましたが、その子について、『千葉大系図』では、長子を胤隆(椎名六郎太郎)といい、

保元の乱に功名を振ふ。治承年中、頼朝卿に仕へ、勇功あり。>

とあり、胤隆は保元元年(1156)の乱(崇徳上皇後白河天皇兄弟、関白藤原忠通・弟頼長の対立がからみ、上皇源為義らの武力を頼んで天皇方に挑戦し、敗北。崇徳上皇は讃岐に配流される)で手柄を上げ、治承年間(1177~81)に源頼朝に仕え、勇功があったといいます。

この胤隆の長子が胤衡(たねひら。椎名兵衛)で、その子が胤元(椎名小次郎)であり、代々椎名(崎)城が居城であったようです。

しかし、『神代本千葉系図』では、胤光の4男胤高が「椎名六郎」と称し、胤高の長子胤秀が「飯倉太郎」と称して飯倉家の祖となり、次男胤次が「堀河四郎」で堀河家の祖、三男胤方が「尾垂次郎」で尾垂家の祖になっています。椎名家は胤高だけで、後は記載されていません。

さらに、『松蘿館本千葉系図』では、胤光の子が「有光」で、「太郎」と称していたというだけです。

さて、椎名(崎)城趾は、広い半島状の椎名台にあり、畑の中に出羽三山供養塚(三山神社)があります。塚上には出羽三山(月山・湯殿山羽黒山)参詣記念碑が3基(明治14年10月2日、大正13年10月17日、昭和28年11月3日)が建てられています。

かって、この一角に祭神が天之御中主命(妙見菩薩)の妙見社がありました。この妙見社は、千葉氏の守護神として一族郎党の所領に勧請され、同族意識を保持し、精神的な拠りところにしていました。この妙見社も、明治42年(1909)10月7日に字宮ノ下の椎名神社に合祀されました。

名神社は、天平16年(744)の創建で、もとは熊野神社と称していたといいます。明治22年(1889)4月に椎名大明神と合併し、現在名に改められ、祭神が天之御中主命・伊弉諾尊速玉之男命・須美熊天命です。

明治42年(1909)10月に城趾内の妙見社の他、字谷津前の香取社、字宮ノ下の天神社、字池ノ入の第六天社、字泉谷の弁財天社が合祀され、その後、昭和46年(1971)7月に源頼朝安房からこの地に来た時、武運と住民の平安を祈願して創建したという白幡大権現も合祀されました。

平成12年(2000)3月に千葉東南部土地区画整理事業に伴い、境内が整備され、社殿の改修も行われました。