千葉介常胤が源頼朝をお迎えした所=「君待橋」

千葉市中央区長洲1丁目、JR本千葉駅付近に都川に架かる「君待橋」があります。この橋は、もともと新川に架かっていた橋ですが、昭和44年3月に家屋移転と道路整備のために取り壊されてしまいました。そこで、昭和55年11月に千葉市は、数々の伝説を秘めたこの橋を永く後生に伝えるため、もとあった場所の一部に小公園を造り、「君待橋苑」と名付けました。

この橋は、当初、どのような橋であったのかは不明ですが、延享3年(1746)2月の『下総国千葉郡寒川村差出帳』には、

<一.板橋弐ヶ所 内壱ヶ所 長さ弐間半、横弐間>

とあり、木造の小橋があったといいます。

伝承によると、治承4年(1180)9月、千葉介常胤が一族郎党などを引き連れて源頼朝を、この橋のところでお迎えした。この時、頼朝は、左右を見渡しながら、この橋の名を尋ねた。常胤の6男東六郎胤頼が進み出て、1首の和歌を詠んだ。

<見えかくれ 八重の潮路を待つ橋や 渡りもあへず 帰る舟人>

頼朝が寒川という片田舎の小さな橋の名前を尋ねられたという話は、あっという間に村中に知れ渡り、いつしかこの橋を「君待橋」と呼ばれるようになったといいます。

また、この君待橋には若い男女悲恋物語もあります。この橋の近くに美しい乙女が住んでいて、川を隔てた向かい側の長洲村の若者と恋仲となり、2人はいつもこの橋のたもとで会っていました。ところが、ある日、大雨のため、橋が流されてしまい、乙女は橋のたもとで悲しみに暮れていました。対岸で、乙女の様子を見ていた若者は、突然、濁流を泳いで渡ろうと、川の中に飛び込みました。しかし、激しい流れに飲み込まれ、見る見る水中に姿を没してしまいました。これを見た乙女は、救うに救えず、悲しみの余り激流に身を投げ、若者の後を追いました。

村人たちは、この悲しい出来事を後々の世まで伝えようと、この橋を「君待橋」と名付けたということです。