九十九里町

高村智恵子が療養した田村別荘 智恵子ゆかりの羽織Ⅱ

智恵子が九十九里町真亀を去るとき、お世話になった真亀の小倉機屋さんの奥さんに、そのお礼にと置いていった「羽織」。 その後、大網の小川さんから、現在保管している鈴木茂さんに渡ったといいます。 鈴木さんは、町の方で保管し、展示するように申し出た…

高村智恵子が療養した田村別荘 智恵子ゆかりの羽織

昭和9年(1934)12月20日、智恵子は九十九里町真亀で7ヶ月余り療養し、母センや斎藤一家に見送られ、光太郎の連れられて自動車で東京のアトリエに戻りました。この間、体は丈夫になったが、脳の変調は進展したといいます。 この真亀での療養生活で…

九十九里町のある「豪農屋敷」

九十九里町不動堂の山脇学園臨海校舎松頼荘(もと豊海中学校)の敷地内に埼玉県加須、油井城跡に建っていた豪農の館を移築した「豪農屋敷」があります。 当時の記録によると、この建物は、明治45年から大正7年までの8年間の歳月を費やして建築されたとい…

九十九里町の関東地方甘藷栽培発祥の地碑

県道75号(豊海県道)沿いのJA脇一帯は、江戸時代、南町奉行与力給知上総方代官赤松源之進典村の屋敷跡(明治時代に豊海村役場)であり、この一角に昭和43年(1968)11月建立の「関東地方甘藷栽培発祥の地」碑がある。 享保20年(1735)に…

九十九里町真亀の須賀神社を訪ねて

九十九里町真亀652番地に鎮座する「須賀神社」は、祭神が須佐之男命です。牛頭天王ともいわれ(地元では「天王さま」という)、創建年代は享保年代以前といい、旧真亀村の村社でした。 境内には本殿の他、幣殿、拝殿、社務所、左側には御輿が入った建物が…

九十九里鉄道の跡を追って(その2)

東金市から九十九里町に入ると、九十九里鉄道の路線は「きどうみち」として整備されていた。 東金市にはJR鉄道が走っており、この九十九里鉄道には感心が薄いようで、東金市区は路線が消えたり、用水路などに変わったりしています。 それが九十九里町に入…

九十九里鉄道の跡を追って(その1)

かつて東金・上総片貝間の8.6kmを28分で走っていた「九十九里鉄道」。ほぼ直線で、田んぼの中に単線の線路が敷かれ、平均時速20kmの列車が走っていました。 大正15年(1926)11月25日に「九十九里軌道」として開業しました。土地の人た…

世直し・攘夷「真忠組騒動」の史跡を訪ねて

幕末の文久3年(1863)12月、攘夷と貧民救済をスローガンに掲げ、楠音次郎正光(首領)、三浦帯刀有国(副首領)ら140人余が山辺郡小関村(九十九里町小関)の旅籠「大村屋」(写真上)を拠点として「真忠組」の旗揚げをした。世に「真忠組騒動」…

九十九里有料道路の「智恵子橋」

九十九里有料道路(波乗り道路)の片貝ICから大網白里に向かいますと、間もなく右手に国民宿舎サンライズ九十九里の建物が目に入り、有料道路は真亀川に架かる橋を渡ります。 この橋を「智恵子橋」といい、昭和9年(1934)5月から7ヶ月余り真亀納屋…

「安くて、おいしい!」九十九里・真亀のプレートランチ・ワイメア

「九十九里有料道路」を真亀で下りると、正面に特異な建物の国民宿舎「サンライズ九十九里」が目に入ります。この前から1つ目の信号(左手にコンビニ・ヤマザキがある)を右手に入ると、左側にハワイ風の建物があります。これがハワイを好み、毎年のように…

「九十九里浜」の地名由来

石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、房州に逃れ、その後、太東崎に差し掛かりました。 「美しい景観だのう・・・。いったい、この浜辺はどのくらいの道のりでがざるか?」 「は、はい。いまだに誰も計ったことがありませんので、いかほどの道のりか分かり兼ねま…