千葉一族椎名氏の居城、椎名(崎)城を訪ねて(その1)

天正18年(1590)に豊臣秀吉は、関東地方を支配圏にするため、徳川家康と共に小田原北条氏の攻略に向けて軍勢を進めました。そして、4月9日に秀吉は本営の石垣山に入り、秀吉・家康の家臣を北条氏分国の武蔵・上野・下野・上総・下総の支城に向けて攻め落とすという作戦に出ました。

この時の房総の様子について、『房総治乱記』に、

天正十八年七月十一日、小田原の北条氏政・氏直、秀吉のために滅亡し、東八州を家康公へ授けらる。仍りて御仕置の為に、本多中務大輔忠勝・平岩主計頭親吉・鳥居彦右衛門元忠等、数万を差し向けらる。(中略)さる程に、三大将列を調へて下総に到りぬと云ふ程こそあれ、「吾先に」と城を出て、散々に落ち行けり。>

とあり、本多・平岩らに佐倉・東金・八幡・千葉・生実・国府台・勝浦・庁南・一宮・久留里など、48ヶ所の城が明け渡され、城主は所々に逃走したといい、さらに、

<土民、是を「家康公の御威光には、一日の中に五十の城落さる。>

と記されています。

この時、秀吉・家康の家臣たちに攻められ、明け渡した城について、旧妙見寺(千葉神社)の『天正十八年千葉家落城両総城々』には、上総分が49ヶ城、下総分が77ヶ城,計126ヶ城が記載されていますが、この中で千葉市域のものが5城あり、

千葉城(千葉介成胤朝臣)  

・小弓(原次郎友胤)  

・椎名(椎名六郎胤光)

・大椎(千葉介常兼朝臣、同常重朝臣、後高木氏 小高氏居)

・土気(土肥氏)

と記載されています。この中から、椎名(崎)城について見ていきます。

椎名(崎)城は、千葉市緑区椎名崎町椎名台の半島状台地にあり、腰曲輪・物見・空堀・土塁の一部が残っています。この城の城主について、『千葉大系図』によると、千葉介常兼の長男、常重が大治元年(1126)に居城を大椎(千葉市緑区大椎町)から亥鼻(千葉市中央区亥鼻)の地に移していますが、6男の胤光は「椎名六郎」と称し、

下総国千葉庄椎名郷の城に居る。此の城は堅固のため、大椎城(常兼の本城)の要害の子城也。>

とあります。また、『千葉伝考記』にも、第6代常兼の6男胤光について、

<椎名六郎と号し、同国椎名郷に在城す。>

と記されています。

しかし、『千学集抄』や『妙見実録千集記』では、

<千葉第七世常重、三男胤光、椎名八郎。>

とあり、胤光(椎名八郎)は千葉介常重の3男になっています。どちらが正しいのかは分かりませんが、椎名氏が椎名(崎)城を居城としていたことは確かなようです。(続く)