千葉介胤政の八男多部田太郎の居城・多部田城

大和時代に朝廷の支配を受け、生産や労役にたずさわった人々によって開墾され、農業が行われたという「多部田」(千葉市若葉区多部田町)の地に、土塁と空堀とに囲まれた、方形の城趾が見られます。

永禄9年(1566)、上杉謙信が千葉介胤富の居城、臼井城を攻めあぐんだのは、城中に軍配の名人臼井入道がいたからであるといわれています。この臼井入道は、大須賀胤信の後裔臼井長門守胤定で、多部田殿と称されています。

この多部田城についての記録は見られませんが、『千葉実録』には、千葉胤政の8男の胤忠多部田太郎(『千葉大系図』では「辺田五郎」)であることから、胤忠がこの地を治めていたものと思われます。

この城の南東部には、もう一つの土塁と空堀があります。これは、東に最福寺もありますが、この時代においては多部田城の防備の施設として設けられたようです。また、南東部にある「備前屋敷」は、多部田太郎の家臣たちの屋敷で、東側の防御でもあったようです。