千葉市中央区

荒久古墳について

千葉市中央区青葉町、青葉の森公園内(旧畜産試験所内)に「荒久(あらく)古墳」があり、俗に「岩の唐戸」と呼ばれ、切石の横穴式石室を有する方墳です。昭和34年の調査で、石室床面から1体の人骨と琥珀(こはく)製なつめ玉3個、鉄製馬具が発見されて…

千葉町界隈(2) 「遊郭」時代の新町

JR千葉駅の西側には「千葉そごう」という大きなデパートがありますが、ここから海岸向かっての一帯を「新町」といいます。新町通りの裏手には「八幡宮」があり、その脇の「記念之碑」には、 <新町天満宮の鎮座地は、千葉市登戸天神山の中腹に祀られていた…

千葉町界隈(1) 港町時代の登戸(のぶと)

江戸時代、千葉町は散村に過ぎず、むしろ佐倉藩の御蔵があった寒川、一般の旅人が船で乗り降りしていた登戸の方が栄えていました。 江戸時代後期の「登戸の浜」の様子について、弘化2年(1845)の『下総名所図絵』(宮貞定雄)には、 <此のあたりを総…

源頼朝伝説のある白旗神社

中央区新宿町1丁目にある「白旗神社」は、もとは稲倉魂命を祭神として「結城稲荷」と称されていました。 『千葉盛衰記』に、 <頼朝、結城稲荷に白旗を献納、それより白旗大明神と呼ぶ> とあり、治承4年9月17日、源頼朝が千葉に来たとき、千葉介常胤は…

2代将軍徳川秀忠の乳母の子が妙見寺(千葉神社)16世に、そして筑波山の住職へ

千葉妙見寺(千葉神社)の住職は、1世の覚算が平忠常の子であり、以後、15世覚全まで千葉氏一族のものが住職を続けてきた。 しかし、これも天正18年(1590)に千葉氏を滅び、徳川家康が江戸に入ると、妙見寺の住職も一変する。 千葉氏一族以外から…

千葉介常胤が源頼朝をお迎えした所=「君待橋」

千葉市中央区長洲1丁目、JR本千葉駅付近に都川に架かる「君待橋」があります。この橋は、もともと新川に架かっていた橋ですが、昭和44年3月に家屋移転と道路整備のために取り壊されてしまいました。そこで、昭和55年11月に千葉市は、数々の伝説を…

JR西千葉駅前の「稲荷大明神」を訪ねて=江戸時代の刑場跡

JR西千葉駅を降り、千葉大学の方の出口を出ると、右側に松山があります。ここに「稲荷大明神」が鎮座しています。 この一帯は、江戸時代に佐倉藩の刑場跡といわれ、多くの松樹が植えられていたといいます。現在は、駅前となり、多くの大学生や高校生などが…

千葉氏13代の居城・千葉城(亥鼻城)

千葉城(亥鼻城、猪鼻城)の創築については種々の説がありますが、大治元年(1126)に千葉介常重が大椎城(千葉市緑区大椎町)から亥鼻台に築城したとの考えが有力です。城下に様子は、「氏族諸臣の宅も軒を列ねて大に富み販へり」(『千葉伝考記』)と…

千葉市内で最も古い道標(道しるべ)

道標(道しるべ)は、道案内を主とする「道標」と、民間信仰に基づいて造立された石仏・石塔などに道案内の銘文を刻んだ「道標銘」とに大別されます。 千葉市内では、現在、128基の道標が確認されていますが、その中で最も古い道標(道標銘)は、中央区弁…