徳川家康の休憩のために造営された土気の茶亭

千葉市緑区にある「昭和の森」から大網白里町に向かうと「池田入口」のバス停があります。その反対側にこんもりとした丘陵があり、その丘上に日吉神社が鎮座しています。

この辺り一帯が「土気の茶亭」跡で、『当代記』の慶長19年(1614)1月7日の項に、

<大御所(家康)、下総国とけとうかねへ鷹野のため御出。>

とあり、家康は東金辺で「鷹狩り」をするため、「とけ」(千葉市緑区土気町)を通ったといいます。

また、『寛政重修諸家譜』の小栗信友(又兵衛)の項には、

<此月(寛永元年正月)、小栗又兵衛信友、上総に赴き、東金の御離館、ならびに土気の茶亭構造奉行命ぜられ、この月より手斧始せしとぞ。(中略)のち台徳院殿(秀忠)、東金に御放鷹ありて、采地池田村(大網白里市池田)を過らせたまふの時、御茶屋経営の事をつとめしにより、采地ちかき金谷村(大網白里市金谷)にして山林の地をたまふ。>

とあり、小栗信友は東金御殿と土気の茶亭の「構造奉行」(改築又は増築か?)を行い、秀忠が池田に来た時、その褒美として金谷村の山林の地を賜ったといいます。

さて、日吉神社の山門から急な階段を登ると社殿があり、この左手の一段高い所に家康を祭神とする「権現大明神」(土地の人たちは「権現様」といいます)という小祠があります。この地からは広大な九十九里平野を遠望することができます。

徳川実紀』や『当代記』には、家康がこの地を訪れたことが記載されており、この地には随所に家康伝承があります。日吉神社の階段の途中には井戸跡があり、家康が休憩された時、池田の人たちがこの井戸水で御茶を差し上げたといいます。また、社殿の脇に大きな松の老木があり、家康は鎧をこの木に掛けて休憩されたといい、後にこの木を「御茶屋松」と称されたといわれています。さらに、この茶亭の裏側が切り通しになっており、これは家康のお成りのために造成した道で、「お成り道」(御成街道)といわれ、神社の反対側から池田の集落に行くと、山林の中に「賄屋(まかんや)の井戸跡」があり、家康や家臣たちの馬に水を飲ませた井戸であるといいます。

この茶亭でくつろいだ家康は、池田の人たちの厚いもてなしに感謝し、これを仕切った池田の代官野村彦太夫に、茶亭から北方に、眼中に入る一帯の土地(金谷村)を与えたともいわれています。

この茶亭は、船橋御殿・御茶屋御殿・東金御殿と同じ寛文11年(1671)に取り壊されたといい、かっては輝かしい史跡であったと思われますが、時とともに忘れ去られようとしています。