千葉市散策 検見川神社

検見川神社は、貞観11年(869)に疫病退散のため、素盞鳴尊をこの地に祀られたのが起こりであるという。

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その後、江戸時代の元和2年(1616)にこの地の領主であった旗本の金田正明(正辰)が宇迦之御魂神、寛永年間(1624~44)に伊弉冉尊を祀った。

ちなみに金田氏は、源頼朝に仕え、後に誅殺された上総介平広常の弟、頼次(小大夫、千葉上総介常隆の子)が上総国長柄郡金田郷勝見城に居住し、金田を家号としたという。

寛政重修諸家譜』によると、金田惣八郎正勝の3男の正辰(まさとき、初め正吉、左平次、惣八郎)は、15歳のときの慶長16年(1611)に初めて秀忠に拝謁し、19年(1614)の大坂冬の陣に大番として供奉し、翌20年(1615)5月の大坂夏の陣で奮戦し、1人軍列を離れ、敵1人を槍で突き伏せ、6~7人の敵兵と戦い、3ヶ所の傷を負ったが、援軍が進み来たのを見て退散した。

このことを家康は軍功と認め、12月27日に正辰は下総国千葉郡の内において采地500石を賜った。このとき、検見川村(5給)187.5石、曽我野村(6給)6.4石、畑村(3給)155.9石、久々田村(習志野)150石(2給)であった。

後の寛永10年(1633)2月に上総国市原、望陀の2郡において200石が加増され、明暦2年(1656)12月にも300俵を加えられた。このとき、市原郡山田橋(市原市)195石、望陀郡林(袖ケ浦市)であった。

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