文学

高村光太郎が一服した白里村(大網白里市)の南今泉

昭和9年(1934)5月7日、光太郎は「藁にもすがる思い」で智恵子を母センが住む豊海村(九十九里町)真亀納屋に転地療養をさせました。 そして、光太郎は、ほぼ毎週1回、この真亀の地を智恵子の見舞いのため、訪れました。 朝早く両国駅を発ち、2時…

高村智恵子が療養した田村別荘 智恵子ゆかりの羽織Ⅱ

智恵子が九十九里町真亀を去るとき、お世話になった真亀の小倉機屋さんの奥さんに、そのお礼にと置いていった「羽織」。 その後、大網の小川さんから、現在保管している鈴木茂さんに渡ったといいます。 鈴木さんは、町の方で保管し、展示するように申し出た…

高村智恵子が療養した田村別荘 智恵子ゆかりの羽織

昭和9年(1934)12月20日、智恵子は九十九里町真亀で7ヶ月余り療養し、母センや斎藤一家に見送られ、光太郎の連れられて自動車で東京のアトリエに戻りました。この間、体は丈夫になったが、脳の変調は進展したといいます。 この真亀での療養生活で…

高村智恵子が療養した田村別荘 その変遷と新説Ⅵ

汐浜観光組合が買い上げた「田村別荘」は、その地代と改修費の支払いは勿論、定期的な清掃も組合員が行っていた。 同時に組合は、大網白里町に「文化財」に指定するよう要望した。昭和48年(1973)2月に大網白里町文化財審議会の議題として提案された…

高村智恵子が療養した田村別荘 その変遷の新説Ⅴ

大網白里町北今泉の糸日谷正次氏が住まいとして使用していた「田村別荘」は、昭和46年(1971)5月に伊勢化学工業が工場地を広げるため、土地と一緒にこの伊勢化学工業に売却され、糸日谷氏は北今泉3696ー27に新築移転した。 翌47年(1972…

高村智恵子が療養した田村別荘 その変遷の新説Ⅳ

田村別荘は、地元の「汐浜観光組合」の所有となり、「高村光太郎智恵子抄ゆかりの家」として公開されましたが、組合員の高齢化により、組合そのものが自然消滅になりました。 そこで、平成元年(1989)に大網白里町はこの建物を文化財にすることを検討し…

高村智恵子が療養した田村別荘 その変遷の新説Ⅲ

昭和47年(1972)に汐浜観光組合が伊勢化学工業から譲り受けた「田村別荘」は、組合員が地代や改修費を負担し、定期的に清掃も行っていました。 そして、組合は、大網白里町に「文化財」に指定するよう、要望しました。これを受け、48年(1973)…

高村智恵子が療養した田村別荘 その変遷の新説Ⅱ

昭和16年(1941)頃に田村別荘は、糸日谷正次氏が真亀の中村宏氏(あぶらや)から購入し、大網白里町北今泉3696番67号に移されました。 建物は解体せず、下にドラム缶を入れ、そのドラム缶を回しながら移動したといいます。 北今泉に移った「田…

高村智恵子が療養した田村別荘 その変遷の新説Ⅰ

智恵子が療養した「田村別荘」の変遷を探るため、九十九里町真亀と大網白里町北今泉を調査しました。 この別荘があった土地は、大正9年(1920)12月に東京市本郷区金助町17番地(昭和6年1月に本郷区湯島1丁目に転居)の田村豊造が地元真亀の中村…

高村智恵子が療養した田村別荘について

智恵子が療養した「田村別荘」は、東京の湯島1丁目に住む「田村豊造」の所有であったことがはっきりしたが、疑問なのがこの別荘を誰の伝で借用したのかという点である。田村がもと住んでいたところが本郷区金助町(文京区本郷3丁目)で、この付近には明治…

竹久夢二「宵待草」のヒロイン、長谷川カタの居住跡(成田市田町)を訪ねて

2007年12月7日、「宵待草」のヒロイン、長谷川カタの居住跡の現状を知るため、成田市田町を訪ねました。 JR千葉駅から成田線に乗って、30分余りで成田駅に到着しました。千葉に長く住んでいますが、電車で成田に来たのは初めてでした。 成田山東門から田町東…

『南総里見八犬伝』伝説の地巡り(その2.犬掛の里)

犬掛古戦場跡は、天文3年(1534)に里見を継いだ義豊(5代・よしとよ)と義豊によって殺された叔父・実尭(さねたか)の子、義尭(6代・よしたか)の両軍の合戦の場です(下の絵は里見の祖・義実)。 両軍とも血族同士ですが、骨肉の争いを演じました…

『南総里見八犬伝』伝説の地巡り(その1.伏姫籠穴)

南房総市富山(とみやま)は『南総里見八犬伝』の伝説の地です。 富山中学校から20分ほど歩くと、八犬伝の里の玄関口・山門があります。 タイムスリップしたような扉をくぐり、階段を登ります。一歩一歩登って行きますと、凜とした森とその空気にロマンが…