武田信玄の四女・真理姫物語(4)

文禄4年(1595)3月17日に義昌は家臣や住民に惜しまれながら、阿知戸城で亡くなった。56歳であった。

すでに跡を継いでいた義利は、天正18年(1590)に木曽福島からここ阿知戸の地への転封は「左遷」であると強く主張し、家康への不満を募らせていたという。

さらに、粗暴なる振る舞いが多く、叔父の上松義豊を殺害したことで、大名の家中の騒動と判断され、慶長元年(1596)に「領地没収」の上。改易となった。

義利は勿論、木曽家一族・家臣たちは阿知戸から退去し、四散した(慶長5年説あり)。

理姫のその後について、『岐蘇(きそ)古今沿革志』に、

<末子(義通)一人召し連れ、黒沢(木曽町三岳)へ引き籠られ、上村に居住あり。>

とあり、真理姫は末子義通を連れて三岳村(三岳野口)の上村作右衛門宅に身を寄せたという。

この上村家は、天正10年の鳥居峠の戦い(木曽義昌武田晴信との戦い)のときに木曽義昌に付いて戦い、戦功を残し、馬場家・千村家・荻原家などとともに「木曽10人衆」と称されてという(『岐蘇古今沿革志』)。<続く>