武田信玄の四女・真理姫物語(2)

同年(弘治元年)11月に木曽義康・義昌父子は、甲府に出向き、晴信と盟約を結ぶとともに、義昌の妹・岩姫を人質として甲府に差し出し、白木八郎左衛門を付属させた。

これにより、木曽谷は、武田家の支配圏となり、美濃や飛騨への侵攻における最前線基地となった。

元亀元年(1570)に義昌と真理姫の間に初めての子供(千太郎)が生まれた。真理姫が木曽家に嫁いでから15年目のことであり、すでに義昌30歳、真理姫20歳になったいた。子の千太郎は、のちに武田家に義昌の母とともに人質として差し出され、新府(山梨県韮崎市中田町、勝頼の時代の城下町)で生活するが、父の義昌が天正9年(1581)に織田方の遠山友忠の誘いを受け、武田氏を裏切り、信長と盟約を結ぶが、このことに怒った勝頼は、翌10年(1582)3月に千太郎(13歳)を始め、義昌の母(70歳)、義昌の妹岩姫(17歳)を処刑した。韮崎市光明寺の『開基木曽千太郎公縁起』(石碑記載文章)には、

<義昌公は武田家が風雲を告げる頃になるや、離反を企て織田・徳川連合軍と手を結んだ。勝頼公これを知るや、怒り心頭に徹し、天正10年3月朔日、人質を役邸(上野豊後守宅)からほど近い、おどり原に引き立て、家臣土屋惣蔵の介錯により御生害させた。>

と記されている。(続く)