武田信玄の四女・真理姫物語(3)

木曽義昌織田信長に付いたことを武田勝頼に内通したのは真理姫であるといい、同時に上村作左衛門に出した『木曽谷中旧家系譜録』(塩尻市牛丸四方造家文書)には、

<一、同村(木曽黒沢村)之内上村作左衛門と云有、義徳公(木曽氏)に奉仕、戦功度々有之、義徳公、御簾中(ごれんじゅう、正室)右方江御預ヶ置く。>

とあり、このため、天正10年8月に真理姫は義昌と離別し、末子(義通)とともに木曽黒沢村(木曽町三岳黒沢)の作左衛門に預けたという。しかし、『木曽福島町史』の「義通」の項には、

<兄義利改易の後、母義昌の未亡人(信玄の女)は末子一人を伴って密かに木曽に帰り、黒沢村の上村宅に隠棲していた。>

とあり、また、綱戸(旭市)では真理姫は婦人病に霊験があるとされている淡島神社や十一面観音を勧請して人心の安定を図ったといわれることから、阿知戸の義昌のもとで暮らし、義昌が病死した後、あるいは木曽家が改易になった年に木曽の地に帰ったというのが正しいようである。

さて、天正5年(1577)に義昌(36歳)と真理姫(26歳)の間に次男義利(幼名岩松丸、仙三郎)が誕生した。さらに、2人の間には2男3女に恵まれた。

・義春=長次郎、天正12年(1584)から豊臣家に奉仕し、大坂両年の役ともに籠城し、元和元年(1615)に討死した。

・義通=義一、興惣次、母真理姫とともに木曽に行き、代官の上村宅で隠遁生活を送った。

・女=毛利伊勢守髙政室

・女=福島左衛門大夫某室

・女=蜂須賀阿波守家政室