千葉町界隈(2) 「遊郭」時代の新町

JR千葉駅の西側には「千葉そごう」という大きなデパートがありますが、ここから海岸向かっての一帯を「新町」といいます。新町通りの裏手には「八幡宮」があり、その脇の「記念之碑」には、

<新町天満宮の鎮座地は、千葉市登戸天神山の中腹に祀られていた。明治40年6月1日の火災で類焼、同年10月2日再建される。昭和18年、登戸より新町156番地へ地元の方々の御協力を得て移転。なお、平成2年、新町地区市街地再開発事業推進のため、当地に造営・移転したものである。>

と刻まれています。この中で、登戸の天神山は江戸時代からの「馬つなぎ場」で、小さな飲み屋などが多くあった所です。

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この新町一帯は、明治時代初期から「千葉新地(しんち)」といい、「遊郭」がありました。新地とは新しく居住地として開かれた土地のことで、全国的には遊郭などが出来たことが多かったことから、転じて遊郭・遊里を指すことが多いようです。

また、遊郭とは、公許の遊女屋を集め、治安や風紀上、周囲に堀や塀などを囲った区域をいい、別称として「郭(くるわ)」・「遊里」・「いろまち」・「傾城(けいじょう)町」などがありました。

江戸時代には、全国に20数ヶ所の遊郭が存在し、その最大のものは江戸日本橋人形町の吉原(元吉原)で、300軒近くの遊女屋があったといいます。明暦3年(1657)1月の大火(明暦の大火、または振袖火事)で焼失したため、同年6月に浅草裏の日本堤台東区千束3・4丁目)に移転しました(新吉原)。

さて、千葉県の遊郭について、昭和4年(1929)の『日本遊里史』(上村行彰)に、

  ・千葉登戸(新地)・・・・・貸座敷数(9)、娼妓数(94)

  ・船橋町・・・・・・・・・・・・・貸座敷数(6)、娼妓数(50)

  ・松戸町(平潟)・・・・・・・貸座敷数(8)、娼妓数(27)

  ・佐倉弥勒町(新地)・・・貸座敷数(5)、娼妓数(28)

  ・海上村松岸(松岸)・・・貸座敷数(1)、娼妓数(30)

  ・木更津町・・・・・・・・・・・貸座敷数(3)、娼妓数(30)

とあり、遊女屋・娼妓(遊女・女郎・傾城などともいう)ともにその数は千葉新地が最も多かったといいます(写真2枚目は船橋遊郭跡、写真3枚目は佐倉遊郭跡)。

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千葉新地の遊郭は、明治12年(1879)に東京の原田新五郎が許可を得て、「原田楼」を開業したことに始まり、次いで「玉睦楼」、同14年(1881)1月に「山田楼」(新吉原揚場町の志方平吉の妻キヨが楼主)、同16年(1883)に「中村楼」、その後、「小川楼」、「武蔵楼」(東京亀戸の鈴木金吉)などが次々に開店しました。

この千葉新地の様子について、明治28年(1895)の『千葉繁盛記』(君塚辰之助)によると、その坪数は3000坪余りで、東西に門があり、その西方の門外に鷲神社が安置されていた。町の西端の新町通りに大門があり、門を入ると、右側に玉睦楼・武蔵楼・静海楼、左側には小川楼・中村楼・原田楼・山田楼・静山楼の8軒が3層4層の屋を連ねていたといいます。

ここで働く娼妓数は、明治26年に84人、同28年に86人、昭和4年には94人で、東京出身者が多く、千葉は勿論、遠く兵庫・広島の出身者もいたといい、年齢的には10代から30~40代であったようです。明治25年当時には「玉吉」と若い「春吉」がおり、大変に芸が達者であり、有名であったといい、同40年代には「玉子」という「花魁(おいらん)」(江戸時代、遊郭における最高ランクで、裕福な町人や武士・公家などを客とし、芸事に秀でて、教養も高かった)が名をはせ、昼間は勿論、夜中まで唄ったり、踊ったりしたといいます。

どの店も大変な繁盛振りで、前述の『千葉繁盛記』には、

<紅燈の下美人、羅列して艶揶の色を競ひ、この情界は有頂天の国である。>

と記されています。

この新地の遊郭も、昭和31年(1956)5月に『売春防止法』が成立し、同33年(1958)4月の施行により、その姿を消しました。