武田信玄の四女・真理姫物語(6)

母の真理姫とともに黒沢(木曽町)に隠れ住んだ末子義通が、玉滝村の旧臣末原彦右衛門に送った『書状』(松原家文書)には、

<おのおの心さしのほどを感じ入り候、まことにいかほど義昌目にかけられ候者共多く候へども、その恩の忘れ、かへって敵を求め候に、いづれも奇篤(きとく)或る心づか、悦喜いたし候、義昌一人に相離れ候へば、一門かくの躰に罷り成り候事、口惜しき次第に候、あまつさへ、兄の仙三郎殿さへかくの躰に御なり候、我等事も幼少にて義昌におくれ、母一人の頼みこれある事に候。祖先相伝わる本国にいたるまで相離れ、此の身上に罷り成り候事、我等に於てひとしお無念に候、ぜひ一たびはほんにいたし候事あんのうちたるべく候(以下略)>

とあり、義昌死後、一門の没落を嘆き、兄の改易を悲しみ、幼少の身を以て唯一人母を頼む心もとなさを訴え、是非旧領の木曽を恢復したいと思い、貴下の斡旋によって谷中一身となって尽力されたいと切々と訴えている。

 なお、義通(義一)については、『岐蘇古今沿革志』に、

<末子仙十郎君行衛(いくえ)相知れず、三尾小島(おじま)の義(よし)右衛門にても此れあり哉。>

とあり、『木曽旧記録』にも、

<三尾村に小島之義右衛門にても可有之哉(中略)木曽家之末孫也と代々申し伝に而己、乍去、裏之廟所に先祖也と云伝へし五輪壱躰有之、又夫より一丁程も隔たる処に五輪有之(以下略)>

と記され、母真理姫の死後、三尾村(木曽町三岳三尾)の小島義右衛門(旧木曽家家臣)の庇護を受け、ここで一生を過ごしたという。小島にある五輪塔は、この真理姫の息子、義通の墓であるといわれている。<終わり>