武田信玄の四女・真理姫物語(1)

天文19年(1550)に真理姫は、武田信玄の四女として生まれた。生母については、正室三条夫人、または測室油川夫人の説がある。信玄には6人の娘がおり、

・長女=北条氏政に嫁いだ黄梅院(おうばいいん)

・次女=穴川梅雪に嫁いだ見性院(けんしょういん)

・三女=梅田童女(早世)

・四女=真理姫

・五女=上杉景勝に嫁いだ菊姫

・六女=織田信長の嫡男信忠と婚約したが、手切れとなった松姫

である。生母については、黄梅院と見性院は三条夫人、他の真理姫菊姫・松姫は油川夫人の可能性が高い。

弘治元年(1555)に晴信(のちの信玄)は、信濃と美濃・飛騨の国境付近を治めている木曽義康を配下にするため、8月に木曽福島城を攻め、その日のうちに義康を降伏させた。その経過について、江戸時代初期の『甲陽軍艦』に、

<八月二十一日に鳥居峠を越し、薮原に御馬を立てられ、同二十二日に甘利左衛門尉にて御先を仰せられ(中略)、木曽殿、其日に降参あり。我が所領を悉く上げ、甲府につめて御奉公申すべきと申され、分に付き信玄公、仰せらるるに、小笠原長時に逢ひ、木曽申し分一段よいとて、持つ来る所領、相違なく下され、木曽殿家、高なれば、信玄公、御婿(むこ)になされ、御息女の真理姫に千村備前・山村新左衛門両人を木曽に指し置く。>

とあり、信玄は、木曽家が格の高い家柄であることから、娘の真理姫を義昌の正室として差し出して武田の親族衆にしたという。<続>