箱根関所へ

平成19年(2007)春に復元工事を終えた「箱根関所」へ。 この関所は、江戸幕府が江戸防衛のために全国に53ヶ所に設置されてものの一つで、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓井(群馬県)、木曾福島(長野県)と並んで規模が大きく、特に重要な関所…

匝瑳市の史跡 脱走塚

匝瑳市の中台に「脱走塚」がある。 明治元年(1868)10月6日、匝瑳郡松山村で水戸藩内部の諸生派(佐幕派)と天狗党(維新派)との戦いが起こり、諸生派が敗れ、30名が討死した(「松山戦争」という)。 そこで、天狗党は亡くなった諸生派の首を塩…

九十九里町のある「豪農屋敷」

九十九里町不動堂の山脇学園臨海校舎松頼荘(もと豊海中学校)の敷地内に埼玉県加須、油井城跡に建っていた豪農の館を移築した「豪農屋敷」があります。 当時の記録によると、この建物は、明治45年から大正7年までの8年間の歳月を費やして建築されたとい…

千葉市散策 検見川神社

検見川神社は、貞観11年(869)に疫病退散のため、素盞鳴尊をこの地に祀られたのが起こりであるという。 その後、江戸時代の元和2年(1616)にこの地の領主であった旗本の金田正明(正辰)が宇迦之御魂神、寛永年間(1624~44)に伊弉冉尊を…

竹久夢二「宵待草」のヒロイン、長谷川カタの居住跡(成田市田町)を訪ねて

2007年12月7日、「宵待草」のヒロイン、長谷川カタの居住跡の現状を知るため、成田市田町を訪ねました。 JR千葉駅から成田線に乗って、30分余りで成田駅に到着しました。千葉に長く住んでいますが、電車で成田に来たのは初めてでした。 成田山東門から田町東…

『南総里見八犬伝』伝説の地巡り(その2.犬掛の里)

犬掛古戦場跡は、天文3年(1534)に里見を継いだ義豊(5代・よしとよ)と義豊によって殺された叔父・実尭(さねたか)の子、義尭(6代・よしたか)の両軍の合戦の場です(下の絵は里見の祖・義実)。 両軍とも血族同士ですが、骨肉の争いを演じました…

『南総里見八犬伝』伝説の地巡り(その1.伏姫籠穴)

南房総市富山(とみやま)は『南総里見八犬伝』の伝説の地です。 富山中学校から20分ほど歩くと、八犬伝の里の玄関口・山門があります。 タイムスリップしたような扉をくぐり、階段を登ります。一歩一歩登って行きますと、凜とした森とその空気にロマンが…

九十九里町の関東地方甘藷栽培発祥の地碑

県道75号(豊海県道)沿いのJA脇一帯は、江戸時代、南町奉行与力給知上総方代官赤松源之進典村の屋敷跡(明治時代に豊海村役場)であり、この一角に昭和43年(1968)11月建立の「関東地方甘藷栽培発祥の地」碑がある。 享保20年(1735)に…

坂田城址を訪ねて(その2)

坂田城について調べるため、書斎の本棚から参考文献を探すと、『山武郡の古城址』(清水浦次郎)があった。その中に昭和6年(1931)当時の坂田城の様子が記載されていたので、それを書き留めることにした。 <坂田城址> 横芝町(旧大総村)坂田の坂田…

坂田城址を訪ねて

国道126号から旧道に入り、横芝中学校脇を直進すると、左手に坂田池公園があります。ここに車を駐車し、北側に小高くそびえる坂田城址を訪ねました。 道沿いに「坂田城址遊歩道」入口があり、その指示を従い、城址への坂道を登ります。ほどなく高く囲まれ…

市川・北国分東照宮(伊弉諾神社)

北総開発鉄道の北国分駅を降り、左手に進むと、字権現原(堀之内4丁目)に伊弉諾(いざなぎ)神社があり、文化6年(1809)には相殿に徳川家康が祀られていた。地元の人たちは、この神社を「権現様」と称している。 この神社の北側入口には、文化6年建…

大網白里市小西の正法寺と近江局

大網白里市小西にある妙高山正法寺(日蓮宗)は、長禄2年(1458)に原胤継(小西原氏の祖、小西城主)が松戸本土寺の妙高院日意上人を招き、創建した。その後、天正10年(1582)に飯高檀林(匝瑳市飯高妙福寺)の日裕がこの寺に檀林を開檀し、「…

芝山町の観音教寺を訪ねて

先日、芝山の観音教寺に不受不施派関係の史料があるということで、久しぶりに訪ねました。 この寺院は、比叡山延暦寺を本山とする天台宗で、正式には天応山観音教寺福聚院といいます。創建は、奈良時代末期の天応元年(781)に光仁天皇の勅命により、征東…

大多喜方面巡検

歴史を知る会の「秋の巡検」は、鶴舞・大多喜方面巡り。 鶴舞ではツールハウスから房総の山々を見た後、本丸跡・藩庁跡・大井戸を見学。それにしても、ツールハウスからの房総の山々を見るのは絶景です。何度見ても飽きません。 鶴舞へは大型バスが入ること…

大多喜城の薬医門

県立大多喜高校の正門付近に県指定史跡の「薬医門」があります。 この薬医門は、天保13年(1842)の火災後に建築された二の丸御殿の御門の一つであるといい、大多喜城内の建造物の数少ない遺構の一つです。 明治4年(1871)の廃藩置県の際に城山…

房総の東照宮

徳川家康を祭神とする東照宮は、日光東照宮・久能山東照宮が有名ですが、日光東照宮の高藤晴俊氏によりますと全国に500社以上あるといいます。 この中で、千葉県内には20社あるとされていますが、郡史や町・市史などの文献や現地調査から41社が確認さ…

静岡の旅 由比本陣跡

今年の旅の最後は、東海道五十三次の16番目の宿場の「由比宿」。 天保年間には、本陣1、脇本陣1、旅籠32軒、家数160軒、人別713人であったという。 宿場の入口では街道が鍵の手に曲がっている、いわゆる「枡(ます)形」が現在も見られる。 由比…

静岡の旅 清見寺(せいけんじ)

清水区にある臨済宗の清見寺を参詣する。 寺の前の駐車場に車を止め、鉄道線路の上を渡るようになっている参道を進む。記録によると、「駿河湾を望む風光明媚な高台にある」とあり、室町時代には雪舟、明治時代には夏目漱石・島崎藤村などが訪れたという。 …

静岡の旅 久能山東照宮(2)

本殿からさらに奥に進むと、「家康公神廟」がある。現地説明板には、 <家康公は元和2年(1616)4月17日に甍去せられ、御遺命によってこの地に埋葬し奉った。廟の高さ6m、西向きになっている。> と記されている。 家康が亡くなった夜、遺命により…

静岡の旅 久能山東照宮(1)

今年の旅のメーンは、駿府城址ともう一つ、この「久能山東照宮」である。 晩年に駿府で過ごした家康は、元和2年(1616)4月17日巳の刻(午前10時)に死去した後、遺命により、この地に埋葬された。 家康の遺命は、同年4月2日頃で、側近の本多正…

静岡の旅 臨済寺

静岡市内の駿府城址の北方にある「臨済寺」へ。 寺伝によると、「今川義元の兄氏照の菩提寺で、義元の軍師太原(たいげん)雪斉(せっさい)長老が、師の大休禅師を迎え、開山した。雪斉は、今川義元の執権職として、帷幕(いばく。軍議をする場所)に縦横の…

静岡の旅 安倍川もち

江戸時代初期、家康が安倍川岸の茶屋に立ち寄ったとき、その店主が黄粉を安倍川上流(梅ヶ島)で取れる砂金に見立てて、撞きたての餅に塗し、「安倍川の金な粉餅」と称して献上した。 家康は、これに大層喜び、安倍川にちなんで「安倍川餅」と名付けたという…

静岡の旅 静岡浅間神社

次に訪れたのは、静岡浅間神社。この神社は、神部(かんべ)神社と浅間(あさま)神社、大歳御祖(おおとしみおや)神社の三社を総称している。いずれも、駿河国総社として広く信仰されているという。 三社とも鎌倉時代から歴代幕府の崇敬を受け、江戸時代に…

静岡の旅 駿府城址(2)

中央の本丸跡に昭和48年(1973)に建立された「徳川家康公銅像」がある。家康唯一の趣味であった「鷹狩り」。左手には鷹がのせられ、家康に相応しい銅像である。 元和2年(1616)4月17日にこの銅像が建つ辺りで、家康は75歳の生涯を終えたの…

静岡の旅 駿府城址

友人二人との静岡の旅。最初の見学地は、駿府城址。もう4~5回、訪ねているが、久しぶりの見学となる。 この駿府城は、家康の隠居城であるが、14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏が、この地に「今川館」を築き、今川領国支配の中心地であった…

千葉町界隈(2) 「遊郭」時代の新町

JR千葉駅の西側には「千葉そごう」という大きなデパートがありますが、ここから海岸向かっての一帯を「新町」といいます。新町通りの裏手には「八幡宮」があり、その脇の「記念之碑」には、 <新町天満宮の鎮座地は、千葉市登戸天神山の中腹に祀られていた…

千葉町界隈(1) 港町時代の登戸(のぶと)

江戸時代、千葉町は散村に過ぎず、むしろ佐倉藩の御蔵があった寒川、一般の旅人が船で乗り降りしていた登戸の方が栄えていました。 江戸時代後期の「登戸の浜」の様子について、弘化2年(1845)の『下総名所図絵』(宮貞定雄)には、 <此のあたりを総…

千城村の成立

明治22年(1889)4月1日に『市制町村制』が施行され、市町村は自治体であるとし、従来の戸長役場は廃止され、同時に戸長・筆生を廃し、町村役場を設定し、町村長・助役・収入役を置き、町村議員を選挙して町村会を設け、自治団体としての育成が図ら…

仁戸名・星久喜の子供たちの通学路跡

千葉東金道路(有料道路)の市立養護学校前の橋の脇に、かって仁戸名・星久喜の子供たちが千城尋常小学校に通った「通学路」の跡が残っています。 この辺りは、台地に登る道で、立派な階段の跡が見られます。 ここに立ちますと、何か集団で、大声を上げなが…

鎌ケ谷市内巡り(2) 旅籠屋「丸屋」

木下街道の鎌ヶ谷宿は、鎌ヶ谷大仏から延命寺までの区間で、街道沿いには問屋や旅籠などが立ち並んでいたといいます。 寛政12年(1800)の『鎌ヶ谷村明細帳』には旅籠が7軒あり、明治6年(1873)には4軒が営業していました。 この旅籠(宿屋)…