千葉氏13代の居城・千葉城(亥鼻城)

千葉城亥鼻城、猪鼻城)の創築については種々の説がありますが、大治元年(1126)に千葉介常重が大椎城(千葉市緑区大椎町)から亥鼻台に築城したとの考えが有力です。城下に様子は、「氏族諸臣の宅も軒を列ねて大に富み販へり」(『千葉伝考記』)と伝えています。

大治元年から康正元年(1455)の落城まで、約330年間に、千葉氏13代の本拠地とされました。室町時代に書かれた『千学集』には、

<およそ一万七千軒。表八千軒、裏八千軒、小路表裏五百八十余小路なり。曽場鷹大明神より御達報稲荷の御前まで七里の間、御宿なり。曽場鷹より広小路、谷部田まで、国中の諸侍の屋敷なり。ここには池田・鏑木殿の堀の内にあり、御宿は御一門なり。宿の東は円城寺一門家風ありしまし、宿の西は原一門風在します。橋より向御達報までは町人屋敷なり。これによって、河向を市場と申すなり。千葉の守護神は、曽場鷹大明神、堀内牛頭天王、結城の神明、御達報の稲荷大明神千葉寺の龍蔵権現なり。>

と記されています。

曽場鷹大明神、堀内牛頭天王、結城の神明、御達報の稲荷大明神千葉寺の龍蔵権現、妙見(千葉神社)などの神仏は、「陰陽道」の見解に乗っ取っているといわれます。

陰陽道・・・中国の易学の考え方で、相反する両者は、天地・春秋・君臣・上下・生死・善悪など、互いに循環、転化、対立、依存し合いながら万物を形成する。>

堀内牛頭天王社から鬼門に曽場鷹大明神、裏鬼門に御達報稲荷、直南に龍蔵権現、真西に結城の神明社、北西に北斗山金剛授寺(千葉神社)を配して、神仏の加護を祈っています。

千葉氏の重要な拠点・大椎城

千葉市緑区大椎町の「大椎城」は、平安時代中期に平忠常(975~1031)が築き、大治元年(1126)に千葉常重千葉城亥鼻城)に移るまで、千葉氏の重要な拠点でした。

平忠常は、この大椎城の他、下総国大友にも居館を構え、両総に広大な私営田を所有する、房総で最も有力な武士団の棟梁でした。

この大椎城は、台地上に4つの郭が東西に、直線でつながっています。第1郭の西側の台地の中腹に三角形の突出部が3ヶ所あり、それぞれ眼下に村田川の平地を望み、物見台に利用されたものと思われます。

第2郭は、方形をなし、土塁が比較的よく残っています。この土塁の南側は、幅が広くなっており、櫓台であったと考えられます。

第4郭は、平面三角形で、東側の中段に幅10m、長さ30mの帯状の郭があります。これは、城郭基部の台状遺構が設けられた虎口に対する防御施設として利用されたと思われます。

常重が父常兼の跡を継ぎ、大椎城から千葉城に移った後も、この大椎城は、千葉一族の上総介常家の子孫が守りましたが、15世紀中頃に新勢力の酒井氏が領するところとなりました。酒井氏の居城の土気城の前衛線で、村田川をさかのぼる土岐氏・里見氏などの敵に対する出城として再構築され、使用されたと考えられます。

千葉市内で最も古い道標(道しるべ)

道標(道しるべ)は、道案内を主とする「道標」と、民間信仰に基づいて造立された石仏・石塔などに道案内の銘文を刻んだ「道標銘」とに大別されます。

千葉市内では、現在、128基の道標が確認されていますが、その中で最も古い道標(道標銘)は、中央区弁天4丁目11番地先(旧地は千葉街道に面する場所)の宝永2年(1705)の青面金剛像(高さ110cm、奥行20cm)で、

(右側面) 右ハ □う□ 同よなもと道

(正  面) 奉造立青面金剛講中   宝永二乙酉□□□□

(左側面) 左ハ さいか□ 同□□□□道

と刻まれています(表面が風化し、銘文の多くが読解不能)。

全体的には、江戸時代の道標は少なく、多いのが大正・昭和初期に各地区の青年団によって建てられたものです。

また、「道路元標」も、幕張町・千城村・誉田村・生浜町・更科村の5基を確認しています。これは、明治・大正期の旧町村時代のもので、各町村の中心地(役場付近)に建てられました。この元標があるところが、当時、行政・商業の中心地であると共に、最も栄えていました。

千葉・更科地区の伝説・伝承(1)徳川家康と「さらしな」

千葉市若葉区旦谷・谷当・下田・大井戸・下泉・上泉・中田(更科町・御殿町を含む)・富田・古泉の各町の一帯を総称して「さらしな」と呼ばれるようになったのは、徳川家康命名によるという説があります。

「さらしな」とは、『広辞苑』(岩波書店)によると、

<更科・更級。長野県更級郡の地名。姨捨(おばすて)山、田毎(たごと)の月など、名所が多い。蕎麦(そば)の産地。>

とあり、「さらしなそば(更科蕎麦)」については、

<更科から産する蕎麦。上等な蕎麦として名高い。>

と記されています。

さて、慶長19年(1614)1月8日に家康は、東金辺で「鷹狩り」をするため、早朝に青戸御殿(東京都葛飾区)を発ち、船橋御殿で休憩した後、新しく造られた「御成街道」を通って金親村(千葉市若葉区金親町)の金光院で休憩しました。

この時、中田村・古泉村の農民が作った蕎麦を出したところ、家康は、大変美味しそうに召し上がりながら、

「この蕎麦は、どこで作った蕎麦か?」

と尋ねられました。近くにいた村人が、

「お召し上がり頂いております蕎麦は、この近くの千葉の御殿附近で作っているものでございます」

と答えると、家康は、

「蕎麦といえば、信州の『さらしな』にも名高い蕎麦があるが、それよりもここの蕎麦の方が風味がいい」

といって気に入られ、食後に家康は、

「その御殿一帯を『さらしな』と呼ぶようにするがよい」

と言われたといい、これが「さらしな(更科)」という地名の起源であるといわれています。

世直し・攘夷「真忠組騒動」の史跡を訪ねて

幕末の文久3年(1863)12月、攘夷と貧民救済をスローガンに掲げ、楠音次郎正光(首領)、三浦帯刀有国(副首領)ら140人余が山辺郡小関村(九十九里町小関)の旅籠「大村屋」(写真上)を拠点として「真忠組」の旗揚げをした。世に「真忠組騒動」という。

この騒動に参加したのは、武士・百姓・商人・職人・漁民(網元・水主)・医師から無宿者までおり、山武・長生・匝瑳・香取・海上・市原の各郡にまたがる人々が参加した。 八日市場匝瑳市八日市場)の福善寺と茂原の藻原寺塔中法光院にも支館を置き、村役人や裕福な農商人から軍用金や武器などを調達し、金銭や米の分配から民事関係の裁判も行っていた。

元治元年(1864)正月、幕府は福島(板倉)・一宮・多古・佐倉の4藩の兵、約1500人を派遣させ、真忠組の鎮圧に当たらせた。

同月17日早朝、幕府軍と板倉軍からなる討伐軍、100人余りが小関の大村屋を攻 撃し、首領の楠を始め、7人が討死し、他の26人ぐらいは逃亡した。討伐軍では板倉藩士高橋直太が独りで果敢に戦い、唯一戦死した。

また、18日に佐倉藩兵500人が東金に着き、翌日から残党狩りに当たった。

他方、茂原支館にいた副首領の三浦ら18人は、小関に向かったが、途中で急報が入り、茂原に戻る途中で一宮藩兵150と出会い、戦いとなったが、ほとんどが一宮藩兵に捕らえられた。

八日市場支館にいた隊員17人は、小関討伐の報告を受け、支援のため小関に向かった。その後へ多古藩兵150人が着いたが、空振りであった。隊員17人は大村屋で同士が敗れたことを知り、四散した。中には商人に変装して逃亡した者もいたという。

2月11日から東金の最福寺で生捕らえた者の裁判が開始され、3月29日に田間村(東金市田間)で三浦ら12人の斬首が行われ、うち10人が小関新開で晒し首となった。

九十九里町小関には、真忠組の拠点となった旅籠大村屋跡

f:id:bososhitan:20210608011726j:plain

 

首領楠・副首領三浦の墓碑(明治28年8月13日立、中村亀吉)

f:id:bososhitan:20210608011819j:plain


作田川畔に楠・三浦の辞世が刻まれた真忠組志士鎮魂碑がある。

f:id:bososhitan:20210608011902j:plain

九十九里有料道路の「智恵子橋」

九十九里有料道路(波乗り道路)の片貝ICから大網白里に向かいますと、間もなく右手に国民宿舎サンライズ九十九里の建物が目に入り、有料道路は真亀川に架かる橋を渡ります。

f:id:bososhitan:20210607152214j:plain

この橋を「智恵子橋」といい、昭和9年(1934)5月から7ヶ月余り真亀納屋の「田村別荘」で療養した高村智恵子に因んで命名されたものと思われます。

f:id:bososhitan:20210607152302j:plain

真亀納屋の「田村別荘」で療養する智恵子について、加養嘉雄氏の「『智恵子抄ゆかりの家』を偲ぶ」(大網白里町文化協会会報『文化』第26号)には、

<「キイッーイッ、キイッーイッ」とけものじみた声を出して、辺り構わず叫びはじめます。何が起きたのか、怖いものみたさに近所の子供たちが集まりはじめます。人だかりがする中で益々興奮する智恵子をどうしたらようものやら困り果ててしまった母親のセンさんがやって来た光太郎に相談しますと、彼は、「集まってきた子供たちにお菓子でもやって帰したらどうですか。『智恵子はソプラノ歌手で、歌の練習をしているのだから、邪魔をしないでね』とでもいうのですね」というのです。センさんは、いわれた通りそれを実行しました。騒ぎ出すたびに、お菓子を配るわけですから、たとえ一掴みでも、お菓子の量は大変です。光太郎のリックは中身が一段と増えました。

その頃の子供たち、今七十五、六歳の真亀納屋の方々にお聞きしますと、「そりゃあ、私らにはこたえられねえ楽しみだったよ。キィーが始まるのを待ちかねて出かけて行くと、必ずうまい菓子を貰えってから・・・・・」というのです。>

と記されています。

「安くて、おいしい!」九十九里・真亀のプレートランチ・ワイメア

九十九里有料道路」を真亀で下りると、正面に特異な建物の国民宿舎サンライズ九十九里」が目に入ります。この前から1つ目の信号(左手にコンビニ・ヤマザキがある)を右手に入ると、左側にハワイ風の建物があります。これがハワイを好み、毎年のように訪れている若夫婦が営む「プレートランチ・ワイメア」です。

f:id:bososhitan:20210607151224j:plain

生来、夫婦ともにマリンスポーツのサーフィンが好きで、サーフィンが出来、ハワイ風のプレートランチの店を開けるところを探し求め、気に入ったところが現在地であるといいます。

f:id:bososhitan:20210607151405j:plain

別荘として建てられた家屋を購入し、2人で力を合わせて作り上げたのが今のお店。実にエキゾチックです。ワイメアとはオアフ島の北岸、ワイメア川の河口に形成された入り江がワイメア・ベイ。ハワイ語で「赤い水」という意味であるという。そして、今年の夏の初めには左側にテラスを完成。全てが手作りです。

ガッシリした体格で、気の優しさがにじみ出るマスターのフミくん。おいしい料理を作り上げます。明るく愛想がいい、奥さんのキョちゃん。出来上がった料理をうまくさばく、しっかりものです。

最近、雑誌や新聞の折り込みなどで「安くて、美味しく、ボリュームがある店」として紹介され、結構遠方からの来客も多く、また、時には近くの若奥さんたちのたまり場にもなっています。どのお客さんも、おいしいランチに満足気です。

私も毎週のようにランチを食べ、コーヒーを飲みに訪れます。正面の右手にある椅子が私が専用している席です。なぜかというと、お店の中が禁煙ですので、ここでタバコをふかしながら、若夫婦と世間話で出来るからです。

九十九里浜を約1時間かけて歩いた後、このお店でゆっくりと食事をし、コーヒーをお代わりします。そして、ついつい1時間余り。味は勿論、腹も満足し、別宅に戻るのが日課です。