箱根町の早雲寺を訪ねて

箱根町湯本の「早雲寺」を訪ねました。

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この寺は、山号を金湯山といい、大永元年(1521)に北条早雲の遺命により、その子氏綱が創建したといいます。以来、北条氏一門の香火所でしたが、天正18年(1590)には豊臣秀吉の小田原攻めのとき、秀吉が本営を置きました。この秀吉の小田原攻めの折に本寺は焼失しました。

その後、寛永4年(1627)に僧侶菊径が再興しました。

境内には「後北条氏五代の墓」があります。この墓の前の「案内板」には、

天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え、早雲寺に入り、本陣とした。六月下旬、石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。

七月五日、北条氏が降伏し、同十一日、氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。

なお、北条一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内狭山に約一万石が許され(狭山北条氏)、鎌倉玉縄城主北条氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北条氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。

早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北条両家の外護は欠かせないものであった。

こうして北条五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日、狭山北条家五代当主氏治によって、早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したものである。>

と記されています。

下の写真は、「北条五代の墓」で、手前から早雲(88歳)、氏綱(56歳)、氏康(57歳)、氏政(53歳)、氏直(30歳)のものです。

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箱根関所へ

平成19年(2007)春に復元工事を終えた「箱根関所」へ。

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この関所は、江戸幕府が江戸防衛のために全国に53ヶ所に設置されてものの一つで、東海道の新居(静岡県)、中山道碓井(群馬県)、木曾福島(長野県)と並んで規模が大きく、特に重要な関所と考えられていたようです。

関所前に書かれていた「案内」には、

<この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所足軽番所が向き合うというものとなっています。

一般的に関所では、「入り鉄炮に出女」を取り調べたと言われていますが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取り締まりを行っていました。

江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所ですが、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。>

とあります。

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この箱根関所は、これまで何度が訪問しましたが、全面的に復元したということで、久しぶりに見学しました。

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江戸口御門から入ると、右手に「御制札場」があり、この奥に「大番所・上番休息所」の建物、反対側の左側に「足軽番所」の建物があります。平成11年から発掘調査や石垣の修復、建物の復元などを進め、石垣・建物に関しては、江戸時代の職人が身につけていた「わざ」を使い、復元されたといいます。

実にしっかりした石垣と建物には感心させられました。

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厩・下雪隠などを見た後、階段を登り「遠見番所」へ。江戸時代、旅人が芦ノ湖を船で通航することは禁止されていましたので、この番所から足軽が昼夜を問わず交代で四方の大きな窓から見張っていたといいます。関所や芦ノ湖を一望することができる絶景のポイントでした。

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匝瑳市の史跡 脱走塚

匝瑳市の中台に「脱走塚」がある。

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明治元年(1868)10月6日、匝瑳郡松山村で水戸藩内部の諸生派(佐幕派)と天狗党維新派)との戦いが起こり、諸生派が敗れ、30名が討死した(「松山戦争」という)。

そこで、天狗党は亡くなった諸生派の首を塩漬けにして竹槍に刺し、水戸に持ち帰ったといい、残された死体は、村人の手によって手厚く中台村西方寺墓地に葬られた。これを「脱走塚」と称されている。

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九十九里町のある「豪農屋敷」

九十九里町不動堂の山脇学園臨海校舎松頼荘(もと豊海中学校)の敷地内に埼玉県加須、油井城跡に建っていた豪農の館を移築した「豪農屋敷」があります。

当時の記録によると、この建物は、明治45年から大正7年までの8年間の歳月を費やして建築されたといい、家の骨組みだけでも2年7ヶ月がかかったといいます。

工法的には、釘を1本も使用せず、木と木をからみ合わせ、入念に組み建てられ、水平・垂直材のみの構造で、斜め材は一切用いていません。

昭和48年7月に山脇学園が購入し、この地に移転したものです。

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千葉市散策 検見川神社

検見川神社は、貞観11年(869)に疫病退散のため、素盞鳴尊をこの地に祀られたのが起こりであるという。

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その後、江戸時代の元和2年(1616)にこの地の領主であった旗本の金田正明(正辰)が宇迦之御魂神、寛永年間(1624~44)に伊弉冉尊を祀った。

ちなみに金田氏は、源頼朝に仕え、後に誅殺された上総介平広常の弟、頼次(小大夫、千葉上総介常隆の子)が上総国長柄郡金田郷勝見城に居住し、金田を家号としたという。

寛政重修諸家譜』によると、金田惣八郎正勝の3男の正辰(まさとき、初め正吉、左平次、惣八郎)は、15歳のときの慶長16年(1611)に初めて秀忠に拝謁し、19年(1614)の大坂冬の陣に大番として供奉し、翌20年(1615)5月の大坂夏の陣で奮戦し、1人軍列を離れ、敵1人を槍で突き伏せ、6~7人の敵兵と戦い、3ヶ所の傷を負ったが、援軍が進み来たのを見て退散した。

このことを家康は軍功と認め、12月27日に正辰は下総国千葉郡の内において采地500石を賜った。このとき、検見川村(5給)187.5石、曽我野村(6給)6.4石、畑村(3給)155.9石、久々田村(習志野)150石(2給)であった。

後の寛永10年(1633)2月に上総国市原、望陀の2郡において200石が加増され、明暦2年(1656)12月にも300俵を加えられた。このとき、市原郡山田橋(市原市)195石、望陀郡林(袖ケ浦市)であった。

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竹久夢二「宵待草」のヒロイン、長谷川カタの居住跡(成田市田町)を訪ねて

2007年12月7日、「宵待草」のヒロイン、長谷川カタの居住跡の現状を知るため、成田市田町を訪ねました。

JR千葉駅から成田線に乗って、30分余りで成田駅に到着しました。千葉に長く住んでいますが、電車で成田に来たのは初めてでした。

成田山東門から田町東参道(東門通り)を進むと、左手に成田公民館(市立図書館成田分館)がありました。この公民館の右側に田町商店会が設置した「竹久夢二・叙情詩『宵待草』のヒロイン長谷川カタの居住跡地」という案内板があり、

<「まてど暮せど来ぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月も出ぬさうな」、竹久夢二が恋するカタへの断ちがたい思いを込めた「宵待草」のヒロインとなった長谷川カタは、成田高等女学校に勤務していた姉シマの関係で一家が田町に住んでいました。夢二とカタとの出会いは、夢二が明治四十三年(1910)の夏を銚子の海鹿島で過ごした時で、同じく避暑に来ていた円らな瞳の美しいカタに恋心を抱くようになり、この時、離婚していた夢二とたびたびデートをかさねていたようです。夏の終わりに、夢二に手渡した宵待草にはカタの深い意味が隠されていたように思えます。その後、カタが夢二に宛てた書簡には、二人で過ごした熱い思いが溢れています。夢二が幾度か成田を訪れたことは彼の日記に記されています。翌年の夏に夢二が再び銚子を訪れた時には、既にカタは作曲家の須川政太郎に嫁いで鹿児島へ去っており、カタとの恋は儚いひと夏の夢となってしまいました。この想いを込めて綴られた詩が「宵待草」です。田町は、叙情詩「宵待草」のバックグランドであり、ヒロインのカタが移住していた地で、「宵待草」発祥の地ともいえます。>

と記されています。

この案内板の下の方に、

<この路地直進80m 付属小学校右隣にあります。>

という案内に従い、公民館右側の路地を直進しました。公民館の裏手が「月極駐車場」で、その正面の一段高いところに「成田高等学校付属小学校」の校舎が聳えています。校舎の下に同校の「自然観察園」があります。この地は、かつてテニスコート場であったといいます。

この脇の一段と狭くなった道を直進しますと、右手に「付属小学校職員駐車場」があり、この隣が重田善雄氏宅です。この駐車場と重田氏宅が「成田(田町)十九番地」で、かってこの地に2棟の成田高等女学校の「寄宿舎」が建っていました。この1棟に同校の教諭の姉シマとカタが住んでいました。

重田氏によると、「建物は平屋で、8畳・6畳・3畳の3つの和室にお勝手(台所・風呂)があり、また、シマとカタが住んでいた建物は「崖の下の方」との記録があり、現在の私の家の方であったようです。38年前に取り壊し、今の家を建てましたが、当時のものといえば、玄関前の丸いコンクリート製の井戸(水は成田山の方の湧水を引いてきている)と、庭の方の檜葉の木の切り株(先日の台風で倒れたために伐採した)ぐらいです」といいます。さらに、重田氏の敷地は、学校法人成田山教育財団の所有で、毎年、財団に地代を払っているということです。

突然訪れた、見知らずの私にもかかわらず、重田夫妻から実に丁寧に教えて頂き、かつ厚いもてなしも受けました。感謝しながら、「カタの居住跡地」を後にしました。

『南総里見八犬伝』伝説の地巡り(その2.犬掛の里)

犬掛古戦場跡は、天文3年(1534)に里見を継いだ義豊(5代・よしとよ)と義豊によって殺された叔父・実尭(さねたか)の子、義尭(6代・よしたか)の両軍の合戦の場です(下の絵は里見の祖・義実)。

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両軍とも血族同士ですが、骨肉の争いを演じました。それは、家督相続をめぐる戦いであり、まさに下剋上の戦国の乱世を象徴するかのような戦いで、「犬掛の合戦」といわれています。

この後、この合戦に勝利した義尭は、家督を継ぐとともに国府台合戦などを経て、その子義弘、孫の義頼が安房・上総を一気に収め、里見領国の支配を確立しました。

八犬伝の中では、八犬士が敵味方に分かれて相争う場面が登場しますが、この合戦がヒントになったようです。

古戦場の一角に「里見氏の墓」があり、この合戦で敗れた3代義通、5代義豊がひっそりと眠っている墓です。

もとは大雲院(廃寺)にありましたが、明治42年(1909)にここに移されました。

墓は室町時代の多層塔です(下の写真)。

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この合戦に敗れた義豊の末路がここにあります。

この古戦場跡から南に5分ほど行ったところに公園があり、「八房と狸の像」が建てられています。案内板には「八房伝説」(平成7年2月、富山市)が記されています。

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<この地犬掛(古くは犬懸)は、文化十一年(1814)江戸時代の文学者曲亭馬琴作『南総里見八犬伝』に登場する舞台であり、八犬士の母である里見伏姫の愛犬「八房」の生誕の地であります。

時は室町時代、百姓枝平の家に一匹の雄犬が生まれました。ある夜、母犬は狼に襲われ食い殺され、子犬は不思議にも生き残りました。乳を与える母親がいない子犬を、不憫に思う独り者の枝平でありましたが、野良仕事が忙しく容易にその子犬の世話ができず、育成をあきらめておりました。しかし、不思議なことに、子犬は日増しに丸々と太り成長をしてまいります。不審に思った枝平はある夜、子犬の様子をそっと窺っておりました。

すると、驚くことに夜更けて、富山の方角から年老いた一匹の狸が、子犬に乳を与えに来ているではありませんか。

この様子は村じゅうに語り継がれ、「狸に育てられた犬」としてうわさは広まりました。このうわさは、城主里見義実の耳にとどき、子犬を召し寄せられ、名前も「八房」と命名され、義実の愛娘伏姫の愛犬として、寵愛されるに至りました。

後に、この八房が伏姫と共に伏姫籠穴で暮らすという『南総里見八犬伝』物語の中でも大変有名な場面が、世に発表されることになります。

名犬「八房」の生い立ちが、こうして狸に育てられたという、美しい動物物語として、長くここ犬掛地域に語り継がれてまいりました。

この像は、子犬を育てた、一匹の狸と名犬「八房」を偲び、いつの時代にも、この美しい物語を、多くの人に語り続けようという意味から建立したものであります。>