箱根町の早雲寺を訪ねて

箱根町湯本の「早雲寺」を訪ねました。

f:id:bososhitan:20211217212048j:plain

この寺は、山号を金湯山といい、大永元年(1521)に北条早雲の遺命により、その子氏綱が創建したといいます。以来、北条氏一門の香火所でしたが、天正18年(1590)には豊臣秀吉の小田原攻めのとき、秀吉が本営を置きました。この秀吉の小田原攻めの折に本寺は焼失しました。

その後、寛永4年(1627)に僧侶菊径が再興しました。

境内には「後北条氏五代の墓」があります。この墓の前の「案内板」には、

天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え、早雲寺に入り、本陣とした。六月下旬、石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。

七月五日、北条氏が降伏し、同十一日、氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。

なお、北条一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内狭山に約一万石が許され(狭山北条氏)、鎌倉玉縄城主北条氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北条氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。

早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北条両家の外護は欠かせないものであった。

こうして北条五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日、狭山北条家五代当主氏治によって、早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したものである。>

と記されています。

下の写真は、「北条五代の墓」で、手前から早雲(88歳)、氏綱(56歳)、氏康(57歳)、氏政(53歳)、氏直(30歳)のものです。

f:id:bososhitan:20211217212114j:plain