成田市下総地区巡り 昌福寺

西大須賀にある昌福寺は、室町時代の永正14年(1517)に高僧昌順が開山し、のちに良正が中興である。

本尊は阿弥陀如来。かなり大型で、室町様式を伝える木造寄木の座像で、慈覚大師の作という。

寺宝として平将門の愛妾である桔梗の前の鏡と短剣がある。

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成田市下総地区巡り 児(ちご)塚

国道51号(佐倉街道)を進み、成田市役所に寄り、下総地区の資料を手に入れ、宝田交差点から県道161号(水掛街道)を進み、下総地区に行く。

まず、立ち寄ったのは四谷にある「児塚」である。民家の一角にあり、地元では「子供の霊を慰めるため、供養塔を建て、ねんごろに葬った」とか、鎌倉時代にこの地に流された公家の藤原師賢(もろかた)の娘の墓である」ともいわれている。

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しかし、正確なことは不明であるが、子供の供養塔であることは確かである。

芝山はにわ博物館を訪ねて

芝山の観音教寺を訪ねた際に、同寺に併設されている「芝山ミュージアム・芝山はにわ博物館」を見学しました。

この博物館は、昭和32年(1957)に創設され、平成8年(1996)に新築移転されたもので、昭和32年に早稲田大学滝口宏教授の指導の下で発掘された「殿塚」・「姫塚」の2基の古墳から出土した「はにわ」を中心に、150余体のはにわコレクションや古鏡などが展示されています。

芝山古墳群は、殿塚・姫塚とよばれる2基の前方後円墳が中心で、殿塚は全長86m、前方部が幅58m、後円部が径51m、後円丘の高さが8m、姫塚は全長58.5m、前方部が幅35m、後円部が径35m、後円丘の高さが4.4mです。

この古墳から類の見ない多数の「はにわ」が出土し、後に葬列の「はにわ」と称された姫塚に立てられた45体に及ぶ人物はにわの配列に大きな特色があります。

博物館を入ると、丸木舟が出迎えてくれ、館内には縄文時代の土器類の他に、何といっても所狭しと並ぶ「はにわ」には圧倒され、これらにより、古墳時代の人々の生活の様子を垣間見ることが出来ます。

この殿塚・姫塚は、誰の墓かは分かりませんが、この地域を支配した人のものであることは確かなようです。出土した「はにわ」による住まい(住居)・建物・人物・服装・持ち物・道具などから、この時代、大陸の影響をかなり強く受けていたことが分かり、むしろこの時代は大陸から渡って来た人(渡来人)が支配者となり、それぞれの地域を治めていたのではないかとも思われます。

はにわの多さに驚くと共に、古墳時代の謎解きが出来るような博物館でした。

七廻(ななまわり)塚古墳について

村田川の河口デルタに面する台地上(生実町字峠台)にあった七廻塚古墳は、直経54m、高さ8.8mの大円墳でしたが、昭和33年に生浜中学校(生浜東小学校)校庭の拡張により消滅しました。

この時の調査によると、内部施設は3基あり、いずれも両端に粘土をあてる木棺直葬で、副葬品としては棺内から鉄製大刀・剣・鉄鉾(ほこ)・鎌・斧など、棺外から青銅製鏡・滑石製釧(くしろ)・滑石製品(剣)・滑石製模造品(斧・刀子・剣・鎌)・変形神獣鏡などが出土しました。

この出土の中でも、石剣は、大型(直径16cm)の見事なもので、全国的に見ても優品に属します。また、滑石製の釧(くしろ。腕輪)は、直径16.5cmで、表面を凸レンズ状に盛り上げ、外縁と内縁に放射状の刻みが付けられています。これは、実用品ではなく、呪術的な用途を推測させる、豪族の宝器であったようです。これらの出土品は、現在、南生実町の千葉市埋蔵文化財調査センターに展示してあります。

これらの出土品から見て、この古墳は、5世紀の中頃に築造されたものと考えられています。

地元の伝承によれば、この塚を片足で7回、左周りすると、美しい乙女が機(はた)を織っている姿が現れるとか、オサの音が聞こえてくるといわれています。

荒久古墳について

千葉市中央区青葉町、青葉の森公園内(旧畜産試験所内)に「荒久(あらく)古墳」があり、俗に「岩の唐戸」と呼ばれ、切石の横穴式石室を有する方墳です。昭和34年の調査で、石室床面から1体の人骨と琥珀(こはく)製なつめ玉3個、鉄製馬具が発見されています。

石室の構造は、極めて短い羨道(せんどう)と長方形の玄室からなり、これが石門によって区画されています。また、玄室の床面に粘土を敷き詰め、排水口が設けられています。この古墳の長さは2.07m、奥壁の幅1.4m、入口の幅1.2mで、墳丘の外形、石室の構造・寸法(唐尺)などは、大陸墓制の影響を強く受けています。

これらの点から、この古墳は、古墳時代末期のもので、千葉国造の大私部(おおきさいべ)氏の墳墓でないかと思われます。

三島の山中城跡を訪ねて

静岡県三島市の国指定史跡「山中城跡」を巡りました。

この城は、静岡県と神奈川県を画するように聳える箱根山の中腹、標高580mに位置する戦国時代の城郭です。

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小田原に本拠を置き、関東地方をその領土とする北条氏が築城した国境警備の城、いわゆる「境目の城」でした。このため、領国支配の城郭に比べ、城下集落を持たない、極めて軍事的色彩の強い城でした。

この城は、箱根山外輪山から南西方に伸びる丘陵の尾根を利用して築造され、V字状渓谷をなす2つの河川を天然の堀として利用されているため、城の南北は急崖となり、東西方向の尾根には数多くの堀が設けられています。その範囲は、東西1.7km、南北2.6kmに及んでいます。

この城の創建年代は明らかではありませんが、永禄12年(1569)7月2日付の『武田信玄書状写』に、武田軍がこの山中城と伊豆の韮山城を攻撃したとあることから、駿河・甲斐・相模の「三国同盟」が崩壊した永禄10年(1567)頃に、小田原城の西方の防御の拠点の城として築造されたと考えられています。

天正15年(1587)頃から豊臣秀吉との確執が表面化し、北条氏は農民たちにこの城の大修築工事を行わせました。

そして、同17年(1589)には城の南西に位置する代崎に出城(西の丸)を築き、大規模な増強の工事を開始しました。しかし、この工事は、同18年(1590)3月29日の秀吉による攻撃には間に合わなかったといわれます。約3万5千人に達する豊臣軍の激しい攻撃の前に、城主・松田康長、副将・間宮康俊を始め、約4千人の山中城守備軍は、「半日」にして落城したといわれています。

山中城跡広場に車を止め、「三の丸堀」から「二の丸(北条丸)」に向かいました。広い城跡にもかかわらず、雑草などが刈り取られ、整備が行き届いています。二の丸から「西の丸」へ。周辺には北条氏の築城の特徴が現れている「障子堀」が実によく残っています。この西の丸を一周し、「北の丸」から「天守台」、「本丸」へ。

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歴史のロマンに浸りながら、駒形諏訪神社から国道1号に出て、豊臣方武将の墓・北条方武将の墓を見た後、バス停の近くにある「案内所・売店」へ。ここで、名物「寒ざらし団子」を食べました。上新粉を冬場の寒気にさらして作ったものであるといいます。素朴な感じでしたが、美味しく頂きました。

この山中城跡巡りは、規模が大きいため、かなり長い時間をかけて歩きましたが、整備され、実に見応えのある城跡でした。

下に掲載した写真は上から西の丸跡、障子堀跡、本丸跡です。

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千葉氏胤の五輪塔がある来迎寺

千葉市稲毛区轟町に「智東山聖聚院来迎寺」があります。もとは中央区道場北町にありましたが、昭和20年の空襲で全焼し、戦後、現在地に移りました。

この寺院は、建治2年(1276)に一遍上人を開基にし、千葉貞胤が建立しました。浄土宗鎮西派に属し、本尊が阿弥陀如来です。

境内には応永32年(1425)2月15日と刻まれた千葉氏胤の他、夫人円勝尼などの五輪塔が7基と伏見宮尊空法親王伏見宮邦頼親王の子)の卵塔が建てられています。

氏胤については、『千葉大系図』には貞胤の子で、建武4年(1337)5月11日に京都に生まれ、観応2年(1351)、15才で家督を継ぎ、貞治4年(1365)9月13日に美濃国の知行所において29才で亡くなったと記されています。氏胤は、和歌にも優れ、『新千載集』に、

<人知れず いつしか落つる涙川 渡るとなしに 袖ぬらすらん>

などの歌が載せられています。

「道場」の地名は、この来迎寺に修業道場があったことから名付けられたといい、門前の鶴岡家(現在は鶴沢町に移る)は、伏見宮尊空法親王が法灯を継ぐために京都から下って来たとき、籠脇に侍して来て、そのまま土着したといわれています。