三島の山中城跡を訪ねて

静岡県三島市の国指定史跡「山中城跡」を巡りました。

この城は、静岡県と神奈川県を画するように聳える箱根山の中腹、標高580mに位置する戦国時代の城郭です。

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小田原に本拠を置き、関東地方をその領土とする北条氏が築城した国境警備の城、いわゆる「境目の城」でした。このため、領国支配の城郭に比べ、城下集落を持たない、極めて軍事的色彩の強い城でした。

この城は、箱根山外輪山から南西方に伸びる丘陵の尾根を利用して築造され、V字状渓谷をなす2つの河川を天然の堀として利用されているため、城の南北は急崖となり、東西方向の尾根には数多くの堀が設けられています。その範囲は、東西1.7km、南北2.6kmに及んでいます。

この城の創建年代は明らかではありませんが、永禄12年(1569)7月2日付の『武田信玄書状写』に、武田軍がこの山中城と伊豆の韮山城を攻撃したとあることから、駿河・甲斐・相模の「三国同盟」が崩壊した永禄10年(1567)頃に、小田原城の西方の防御の拠点の城として築造されたと考えられています。

天正15年(1587)頃から豊臣秀吉との確執が表面化し、北条氏は農民たちにこの城の大修築工事を行わせました。

そして、同17年(1589)には城の南西に位置する代崎に出城(西の丸)を築き、大規模な増強の工事を開始しました。しかし、この工事は、同18年(1590)3月29日の秀吉による攻撃には間に合わなかったといわれます。約3万5千人に達する豊臣軍の激しい攻撃の前に、城主・松田康長、副将・間宮康俊を始め、約4千人の山中城守備軍は、「半日」にして落城したといわれています。

山中城跡広場に車を止め、「三の丸堀」から「二の丸(北条丸)」に向かいました。広い城跡にもかかわらず、雑草などが刈り取られ、整備が行き届いています。二の丸から「西の丸」へ。周辺には北条氏の築城の特徴が現れている「障子堀」が実によく残っています。この西の丸を一周し、「北の丸」から「天守台」、「本丸」へ。

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歴史のロマンに浸りながら、駒形諏訪神社から国道1号に出て、豊臣方武将の墓・北条方武将の墓を見た後、バス停の近くにある「案内所・売店」へ。ここで、名物「寒ざらし団子」を食べました。上新粉を冬場の寒気にさらして作ったものであるといいます。素朴な感じでしたが、美味しく頂きました。

この山中城跡巡りは、規模が大きいため、かなり長い時間をかけて歩きましたが、整備され、実に見応えのある城跡でした。

下に掲載した写真は上から西の丸跡、障子堀跡、本丸跡です。

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