高村智恵子が療養した田村別荘について
智恵子が療養した「田村別荘」は、東京の湯島1丁目に住む「田村豊造」の所有であったことがはっきりしたが、疑問なのがこの別荘を誰の伝で借用したのかという点である。田村がもと住んでいたところが本郷区金助町(文京区本郷3丁目)で、この付近には明治から昭和にかけて夏目漱石・坪内逍遙・二葉亭四迷、正岡子規・宮沢賢治・石川啄木などの多くの文人たちが居を構えていたという。
この本郷区の千駄木に光太郎のアトリエがあることから、田村が知り合いの文人が、光太郎に紹介したとも推測することが出来る。
この「田村別荘」はすでに姿を消したが、かつて大網白里町は「もともと自分の町にあったものではなく、建物が改築されているため、保存の予定はない」といい、九十九里町が「『千鳥と遊ぶ智恵子』の歌碑付近に移して保存する」との話もあった。
しかし、いずれ九十九里町真亀に戻り、保存されるだろうと思っていたが、平成12年に大網白里町に行ったときには影も形もなく、目を疑った。
地元の話によると、建物の柱は町役場の方で保存してあるというが確かではない。しかし、財政難や管理面、いきさつなどもあろうが、文化的に貴重な文化財をいとも簡単に無くすことができるものかと、腹立たしい限りである。
成田下総地区巡り 下総歴史民俗資料館
平成7年(1995)2月、旧下総町の町制40周年を記念して下総運動公園の一角に建てられた。
公民館前に車を止めて、資料館に向かう。丘陵地帯に設けられた広い運動公園。前にはモダンな建物。これが歴史民俗資料館。
靴を脱いで館内へ。実に民俗資料が多いが、高岡藩の陣屋の模型があり、見ものである。狭い部屋であるが、内容は充実していた。
成田下総地区巡り 小御門(こみかど)神社
この「成田市下総地区巡り」の見学目的地のもう一つは、小御門神社である。
祭神は鎌倉末期の公卿である花山院大納言藤原師賢(もろかた)である。この師賢は、後醍醐天皇の側近で、時に鎌倉幕府の北條氏打倒を計画したが、事前にその計画が漏れ、幕府方に捕らえられ、この下総に流された。身柄は千葉氏に預けられ、元弘2年(1332)に32歳で亡くなった。
この神社の名は、大御門(おおみかど。皇居の門)に対し、明治10年に明治天皇から「小御門」の社号を賜った。同15年には別格官幣社になった。
現在の社殿は、明治15年の造営。本殿・拝殿・中門・奉幣殿・神庫・社務所などがある。
本殿の裏に師賢の古墳があり、「公家塚」・「大納言塚」などと呼ばれ、慶応3年(1867)に領主稲葉正邦が建立した「贈太政大臣藤原文貞公墓」の碑が塚上にあり、近くには師賢の幽居跡がある。