高村智恵子が療養した田村別荘について

智恵子が療養した「田村別荘」は、東京の湯島1丁目に住む「田村豊造」の所有であったことがはっきりしたが、疑問なのがこの別荘を誰の伝で借用したのかという点である。田村がもと住んでいたところが本郷区金助町(文京区本郷3丁目)で、この付近には明治から昭和にかけて夏目漱石坪内逍遙二葉亭四迷正岡子規宮沢賢治石川啄木などの多くの文人たちが居を構えていたという。

この本郷区千駄木に光太郎のアトリエがあることから、田村が知り合いの文人が、光太郎に紹介したとも推測することが出来る。

この「田村別荘」はすでに姿を消したが、かつて大網白里町は「もともと自分の町にあったものではなく、建物が改築されているため、保存の予定はない」といい、九十九里町が「『千鳥と遊ぶ智恵子』の歌碑付近に移して保存する」との話もあった。

しかし、いずれ九十九里町真亀に戻り、保存されるだろうと思っていたが、平成12年に大網白里町に行ったときには影も形もなく、目を疑った。

地元の話によると、建物の柱は町役場の方で保存してあるというが確かではない。しかし、財政難や管理面、いきさつなどもあろうが、文化的に貴重な文化財をいとも簡単に無くすことができるものかと、腹立たしい限りである。

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安楽寺の三十番神宮

花和地区の安楽寺で見つけた石碑の二つ目は「三十番神宮」(高さ66cm、幅26cm、奥行き18cm)である。

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この石碑には、

(正面)三拾番神

(右側面)天満宮 疱瘡神

(左側面)牛頭天王社 大杉大明神

(裏面)天下泰平 国土安全(中略)

    天保九戌九月吉日

と刻まれている。

この「三十番神宮」とは、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々を祀る神宮であるという。

安楽寺の保食神

千葉市若葉区大宮町花和地区にある安楽寺の裏山に2つの石碑を発見した。これまでは見当たらず、久しぶりにこの寺院を訪れ、発見した。

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多分、最近、地元の人が花和地区にあったものをこの寺院に移築したものと思われる。

その一つが「保食(うけもち)神」で、高さ61cm、幅24cm、奥行き18cmの石碑である。

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明治26年(1893)4月に「花和区」の人たちが建立したもの。保食神とは、五穀をつかさどる神、食物の神で、馬の神ともいわれ、馬頭観音と同一視されている。

成田下総地区巡り 迎接寺

楽満寺からあぜ道に近い道を進む、冬父(とぶ)の迎接寺に向かう。

この寺院は、弘仁3年(812)に弘法大師聖徳太子作の阿弥陀三尊を携えて来たとき、領主多五郎入道政吉の古地である当地に案内され、心にかなう地に一寺を創建したのが本寺であるという。

本尊は阿弥陀三尊で、鬼舞い面は市指定文化財

やっと山門に着き、境内に入るが、無住か?大分境内が荒れていた。

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成田下総地区巡り 楽満寺

延暦2年(1212)に国一禅師が開基で、本尊は如意輪観音

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行事として3月26日から16日間、「札内ち」と称する数十ヶ町村の観音巡拝と、春秋に利根川沿岸の常総の村々を観音様のご分身を背負って回る「背負い観音」の特異な行事がある。

本堂には多くの「女人観音拝み絵馬」がある。静かな境内には「しもうさ七福神」の一神、恵比寿様が祀ってある。

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成田下総地区巡り 下総歴史民俗資料館

平成7年(1995)2月、旧下総町の町制40周年を記念して下総運動公園の一角に建てられた。

公民館前に車を止めて、資料館に向かう。丘陵地帯に設けられた広い運動公園。前にはモダンな建物。これが歴史民俗資料館。

靴を脱いで館内へ。実に民俗資料が多いが、高岡藩の陣屋の模型があり、見ものである。狭い部屋であるが、内容は充実していた。

成田下総地区巡り 小御門(こみかど)神社

この「成田市下総地区巡り」の見学目的地のもう一つは、小御門神社である。

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祭神は鎌倉末期の公卿である花山院大納言藤原師賢(もろかた)である。この師賢は、後醍醐天皇の側近で、時に鎌倉幕府の北條氏打倒を計画したが、事前にその計画が漏れ、幕府方に捕らえられ、この下総に流された。身柄は千葉氏に預けられ、元弘2年(1332)に32歳で亡くなった。

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この神社の名は、大御門(おおみかど。皇居の門)に対し、明治10年に明治天皇から「小御門」の社号を賜った。同15年には別格官幣社になった。

現在の社殿は、明治15年の造営。本殿・拝殿・中門・奉幣殿・神庫・社務所などがある。

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本殿の裏に師賢の古墳があり、「公家塚」・「大納言塚」などと呼ばれ、慶応3年(1867)に領主稲葉正邦が建立した「贈太政大臣藤原文貞公墓」の碑が塚上にあり、近くには師賢の幽居跡がある。

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