高村智恵子が療養した田村別荘 その変遷の新説Ⅰ

智恵子が療養した「田村別荘」の変遷を探るため、九十九里町真亀と大網白里町北今泉を調査しました。

この別荘があった土地は、大正9年(1920)12月に東京市本郷区金助町17番地(昭和6年1月に本郷区湯島1丁目に転居)の田村豊造が地元真亀の中村守蔵から購入したもので、その後、建物が建てられたものと思われます。

昭和9年(1934)5月7日から12月21日までこの建物に智恵子が療養のために住み、光太郎はほぼ毎週1回、智恵子の見舞いに訪れました。

智恵子がこの別荘を引き上げ、東京に戻った後は、母親センが引き続くこの別荘で生活していましたが、12年(1937)3月には引き上げています。

その後、15年(1940)3月にこの土地と建物は、真亀4674番地の網元の中村宏(あぶらや)が田村から購入しました。

建物は空き屋となり、壁や窓ガラスに落書きが目立ったといい、16年(1941)頃に、網元中村の曳き子であった大網白里町北今泉の糸日谷正次(こまちや)がこの建物を買い取り、解体せずに北今泉3696-67番地(太陽化学工業、のちに伊勢化学工業に合併の前)に移転したといいます。

このときの建物は、木造トタン葺平屋建、6畳が2部屋、4.5畳が1部屋などでした。

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