九十九里町の関東地方甘藷栽培発祥の地碑

県道75号(豊海県道)沿いのJA脇一帯は、江戸時代、南町奉行与力給知上総方代官赤松源之進典村の屋敷跡(明治時代に豊海村役場)であり、この一角に昭和43年(1968)11月建立の「関東地方甘藷栽培発祥の地」碑がある。

享保20年(1735)に将軍吉宗から「薩摩芋御用掛」に任じられた青木昆陽は、その試作地として下総国馬加村(千葉市花見川区幕張町)と上総国不動堂村(九十九里町不動堂)を選び、栽培した。

不動堂村では、赤松氏が送られて来た薩摩芋を近隣の農家に配り、試作したといい、その成功を赤松氏の氏神、不動堂八幡社に祈願したという。

この八幡社は、赤松氏の旧宅地内で、西野との境に近い字妻にあり、祭神は誉田別尊である。この社の「鰐口」(町指定文化財)は青銅造りで、

<奉納御宝前 願主中村正重敬白 享保二十歳孟夏吉日>

の銘文がある。「中村正重」とは、典村の父である赤松姓中村源之進正重で、父の正重が子の典村の薩摩芋試作の成功を祈願して、この社に奉納したものであるという。

この薩摩芋について、『九十九里町誌・総説編』には、

<当時は、あわ・きびだけの畑作だったので、サツマイモもツルに結実するものとばかり想像していた農民たちは、時がたっても結実しないのでがっかりした。そして、抜き捨てようとしたところ、土の中にみごとなイモがごろごろしていたので、おどろきとよろこびにひたったという。>

とある。

この薩摩芋栽培の成功は、享保の大飢饉を始め、のちの太平洋戦争の戦時・戦後の食糧難から人々を救ったといい、甘藷栽培の恩恵を永く伝えようと、この記念碑が建立された。

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写真上は「関東地方甘藷栽培発祥の地」記念碑

写真下は不動堂八幡神社