坂田城址を訪ねて

国道126号から旧道に入り、横芝中学校脇を直進すると、左手に坂田池公園があります。ここに車を駐車し、北側に小高くそびえる坂田城址を訪ねました。

道沿いに「坂田城址遊歩道」入口があり、その指示を従い、城址への坂道を登ります。ほどなく高く囲まれた土塁があり、その内部が主郭(本丸)です。空堀がめぐる土塁が方形となり、まさに要害です。直進すると、空堀に架かる土橋があり、その先に2郭(二の丸)があります。古い図面には「見台」とあり、馬出し状の曲輪になっています。

2郭からさらに進むと、やはり土塁があり、その先に広い3郭(三の丸)があり、今は梅林になっています。やはり周辺部には空堀と土塁が巡り、右手には「姫塚」という円墳が見られ、城普請の安全を祈願するための地鎮跡であるといわれています。

この3郭からさらに土塁を渡って先に進むと、3郭の約3倍の4郭(四の丸)が広がり、梅林となっています。

ここに掲げられている「案内板」には、

<沿革>伝承によると、14世紀中頃、千葉氏によって築城されたと伝えられる。その後、千葉氏の重臣である三谷大膳亮胤興(信慈入道)の居城となり、長倉砦や小堤要害などの支城が整備された。弘治元年(1555)以降、大台城(芝山町)の井田因幡守友胤は、三谷氏の内紛に乗じて大膳亮胤興を討って、坂田城に移ったとされる(『山室譜伝記』)。

坂田城主のなった井田氏は、千葉氏に仕えるとともに、また小田原北条氏の被官として手勢300騎を擁して、東上総における典型的な戦国土豪であった。やがて、栗山川・高谷川の流域一帯に勢力を張り、関東各地に出陣した(『井田文書』)。天正18年(1590)4月、豊臣秀吉の小田原攻めの際、坂田城も追討軍のために落城した。

<構造>この坂田城跡は、JR横芝駅の北西約1.5kmに位置して、俗に「城山」と呼ばれる。その遺構は、栗山川の支谷によって形成された東西250m、南北1500mの半島状台地の先端部に展開している。周囲は沖積低地に接した急崖で寺方北側から延びる谷の鞍部によって親台地から区画され、その南方には坂田沼の低湿地を控え「要害の地」である。

その構造は、直線連郭式と呼ばれるもので、本丸から見台・登城・外城まで曲輪が直線的に配置され、その先端には城門枡形が設けられている。各曲輪は、土塁や空堀によって守られており、土塁の一部を切って柵門(虎口)とし、その要所には櫓台を置き、帯郭などを備えている。

と記されています。

この坂田城址は、県内の中世城址の中でも旧状を残した広大な城址の一つであった。