芝山町の観音教寺を訪ねて

先日、芝山の観音教寺不受不施派関係の史料があるということで、久しぶりに訪ねました。

この寺院は、比叡山延暦寺を本山とする天台宗で、正式には天応山観音教寺福聚院といいます。創建は、奈良時代末期の天応元年(781)に光仁天皇の勅命により、征東大使の藤原継縄が守り本尊である十一面観世音大菩薩を安置したことが始まりであるといいます。

天長2年(825)に慈覚大師円仁によって中興され、千葉氏の祈願所として繁栄し、近隣に80余の子院を置く大寺になりました。しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原北条氏攻めの余波を受け、「全山灰土と化した」と伝えられています。

江戸時代には幕府の庇護を受け、10万石の格式を持つ伴頭拝領寺院として、関東天台宗の中核をなし、また、広く庶民の拠り所となりました。

参道の階段を登ると、仁王門があり、黒塗りの仁王尊が畳の敷かれた内陣須弥壇の上に祀られています。火事・盗難除けのご利益があり、江戸時代には庶民の間で、「芝山の仁王さま」といわれ、度々大火に見舞われた江戸町では火消衆や町屋などの篤い信仰を集め、「江戸の商家では仁王様のお札を貼らない家はない」とまでいわれました。

仁王門からの階段を登ると、右手に天保7年(1836)に完成した三重の塔が聳えています。総高24.98m、軒回りが初重・2重ともに並行乗木で、3重が扇垂木、屋根を大きく見せる工夫が施されています。

千葉県には、五重の塔が中山法華経寺、三重の塔が本寺と成田山新勝寺、多宝塔が安房石堂寺・那古寺の5基があります。

正面の一段高い所に、十一面観世音大菩薩を本尊とする本堂(観音堂)の優美な建物があります。享保6年(1721)の建築で、もとは参道の中央、三重の塔に並んで建てられていましたが、昭和54年(1979)に現在地につり上げました。

本堂の彫刻は、彫刻大工の左甚五郎を始祖とする島村家2代円哲作で、堂内には狩野実光筆の天井画、夏枯れの松の伝説を表す欄間、三葉葵の御紋を打った人天蓋など、多くの文化財があります。

1万坪の境内には仁王門、三重の塔、本堂などの七堂伽藍が、それぞれ歴史の重みを持ちながら、その偉容を誇っています。

<追記>実に貴重な不受不施派関係史料を頂き、感謝しています。