那古寺東照宮(那古寺観音堂内)

館山市の那古山の中腹にある那古寺真言宗智山派)は、鎌倉時代の作といわれる木造千手観音立像(国指定重要文化財)を本尊とし、養老元年(717)に創建したといわれます。明治39年(1906)の『安房志』(斎藤夏之助)の那古寺の項に、

人皇十四代元正天皇養老元年丁巳(717)、天皇病あり。僧行基に命じて之を祈らしむ。時に行基、夢兆あり。事由を奉しければ、勅許ありしを以て当地に来る。偶異品の木材を海中に得て、千手観世音の像一躯を彫刻して奉祷しければ、忽ち感応ありて天皇病即ち癒ゆ。よって本尊を山腹の石窟中に安置し、資財を賜ひて、伽藍を建て、永く勅願所たるべきの命あり。>

と記され、当初は那古山中腹の古屋敷に寺院が建てられていました。

治承4年(1180)に石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、安房に逃れ、この寺に参詣し、源氏の再興を祈願したといいます。

元禄16年(1703)11月22日に起こった房総沖の大地震によって、当寺の塔堂が全壊しました。このため、宝暦9年(1759)に幕府が岡本兵衛に命じ、現在地に再建させました。

上り坂の参道から仁王門をくぐると、左手に鐘楼があり、眼下に鏡ヶ浦(館山湾)を一望することができます。右手には阿弥陀堂と、宝暦11年(1761)に建てられた多宝塔があり、正面には老中松平定信の書の「円通閣」の偏額が掲げられた観音堂があります。

本堂に入ると、左側に日光東照宮陽明門を模した内陣(高さ66cm、幅46cm、奥行33cm)があり、中に家康の坐像が納められています。いつ頃のものかは不明ですが、もとは那古山の中腹、古屋敷にありましたが、元禄の大地震の後に発見され、再建された本堂内に安置さてたといいます。

成田祇園祭

昨日、仲間と成田祇園祭の見学に出掛けました。開始が1時間も遅れ、開始前に昼食の時間となった。

ウナギでスタミナをつけ、再度、成田山新勝寺の境内へ。10基の御輿・屋台が本殿前に出て、一礼して街内に繰り出した。

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2年前にもこの祇園祭の見学に来たが、その時より人出は少ない。やはり3.11の震災の影響か?

 

オリジナル記事アップロード 2011年7月9日

千葉市にある「寛永寺の石灯籠」

千葉市寛永寺の石灯籠が保存されています。

この石灯籠には、

<浚明院殿(第10代将軍)

  天明六年丙午(1786)九月八日

  江州水口城(滋賀県甲賀市水口町)主

  従五位下佐渡守藤原朝臣

  加藤氏明陳(あきのぶ) 敬白>

と刻まれています。

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加藤明陳は、近江水口藩の第5代藩主で、宝暦8年(1758)8月1日に第3代藩主加藤明熙(あきひろ)の次男として江戸で生まれました。明和6年(1769)5月15日に第4代藩主加藤明堯(あきたか)の養子となり、安永5年(1776)12月朔日に初めて10代将軍家治(淩明院)に拝謁(時に15歳)し、同月16日に従五位下能登守に任官しました。その後、同7年(1778)5月10日に明堯の隠居により、家督を継ぎ、近江国に2万5千を領し、水口藩第5代藩主になりました。同9年(1780)12月3日に佐渡守に任じられ、寛政6年(1794)10月15日に関東の川々の普請や京都の警護などに当たりました。

同11年(1799)9月6日に家督を明允(あきまさ)に譲って隠居し、文化5年(1808)10月8日に病により死去しました。51歳でした。

さて、水口藩主(城主)加藤明陳が将軍家治の逝去に伴い、寛永寺に寄進した石灯籠が、いつ、どうして千葉市にあるのかは、今のところ不明です。

鴨川市めぐり 荒島(灯台島)

鴨川松島の一つの荒島は、弁天島のすぐ近くにあり、鴨川灯台が設置されていることから「灯台島」とも呼ばれている。


防波堤から架かる橋は、ハシゴ状で、ジャングルジム並みに鉄骨のはしごである。足元は金網の状態で、何か寒気を覚える。

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鴨川灯台は、白亜円形の小型の灯台で、昭和29年(1954)7月に設置され、その後、56年(1981)3月に改築された。

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灯台の高さ(地上から塔頂まで)が11.1m、標高(平均海面から灯火まで)が26m。

光達距離は12海里(約22km)。

島は荒島層という凝灰岩の島で、岩まで波が押し寄せ、長くいるところではなく、すぐに防波堤に戻った。

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この荒島の全景を弁天橋に戻って写したのが下の写真である。この橋も風通しがよく、カメラのシャッターを切ると、一目散で戻った。

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鴨川市内めぐり 弁天島

鴨川漁港を通り抜け、防波堤を進むと、右側に「鴨川松島」で最も大きな島がある。厳島神社が祀られている弁天島で、面積0.02平方キロ、周囲0.5キロである。

新しく建て替えられた橋を渡ると、厳島神社の赤い鳥居があり、その先に改修中の本殿がある。

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この神社は、広島の宮島を総本社とし、祭神は田心姫(たごりひめ)、端津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)の3女神(宗像三神)である。

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創建は平安時代に唐から戻った慈覚大師であるといい、癸巳(みずのとみ)の年の3月に60年に一度の大開帳、また、30年に一度、中開帳が行われる。その時は、浜から弁天島まで漁船が横に並び、船伝いに渡る儀式が行われる。

次の癸巳の大開帳は、平成25年(2013)に行われる。

 

オリジナル記事 2012年7月6日アップロード

 

鴨川市内めぐり 鴨川松島

鴨川の貝渚(かいすか)から江見にかけての海岸には多くの小島や奇岩が点在しており、中でも、鴨川漁港の沖には外房随一の名勝と称される「鴨川松島」の絶景が広がっている。

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この鴨川松島は、荒島・弁天島・鵜島・雀島・波濤根島・猪貝島・海獺(あしか)島の7つの島とその周囲の岩礁からなる。

この7つの島の中で、一番大きな島は、弁天島で、漁港の堤防と橋で繋がっており,歩いて渡ることが出来る。

この鴨川松島の絶景を、貝渚(かいすか)の集落から眺める。

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~かもがわや、あ~あかもがや、かもがわや。

 

鴨川市内めぐり 魚見塚展望台

魚見塚とは、漁師が魚群を探すためにここに登って見たという伝承がその由来であるという。

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海抜110mの地点に位置し、頂上には長谷川昴氏が彫刻したシンボル女神像「暁風」が太平洋を見つめている。

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この像の前で恋人同士が愛を誓いあい、その誓いの場に鍵を結ぶと幸せが未来まで続くといわれていることから、「誓いの丘」とも呼ばれている。

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この魚見塚(うおみづか)について、5月4日の『千葉日報』には、

<鴨川を一望する絶景。太平洋のかなたを望む女神像の足元には、いくつもの南京錠がかけられ、恋人たちが交わした約束を大事に守っている。魚見塚展望台では市民が憩い、旅行者は感動を、恋人たちは未来を見出す>

と記されている。

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 昭和62年に整備されたが、昨年、外壁や床タイル、展望台までの登坂道などが改修され、夜間には2階デッキの床にちりばめられた蓄光タイルが淡い光を放ち、ムードを高めている。

シンボルのブロンズ製の女神像は6mで、柔らかい笑をたたえている。

この展望台からは、嶺岡山系の東側、反対側には太平洋の海原が美しく延びている。

しばし時を忘れて、「鴨川松島」に目を見張る。

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そして、鴨川の市内に目を向ける。

そして、『千葉日報』には、

<太平洋の大海原、緑豊かな里山、自然が創り出した美しい海岸線が延びる。>

と記されている。

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